Nombres(1966)Philippe Sollers
作家でもあり思想家でもあるフィリップ・ソレルスは、雑誌「テル・ケル」や「アンフィニ」の主催者としても知られています。
彼の作風を一言でいうと、前衛的で難解。処女長編の『奇妙な孤独』、日本では文庫化もされた『女たち』といった例外もありますが、総じて難物揃いです(一方で、換骨奪胎するタイプらしく、様々な試みも先駆という印象はない)。
特に『数』(※)は、スイユ社から刊行された初期の作品群(『公園』『ドラマ』『Lois』『H』『Paradis』)のなかにあっても最難関、極北といわれています(未訳の『Paradis』は改行も句読点も一切ないらしいが)。
後年、ソレルスは、二十歳そこそこでものした「挑戦」や『奇妙な孤独』を自分の作品と認めたくないなどといっていますが、これだって決して読みやすい小説ではありません。
が、主人公以外の固有名詞や物語の存在するそれらに比べ、『公園』は明らかに次元が違い、『ドラマ』『数』と進むに連れ困惑は深まるばかり……。
過去に取り上げたペーター・ヴァイスの『御者のからだの影』や、ペーター・ハントケの『不安 ペナルティキックを受けるゴールキーパーの……』、マルグリット・デュラスの『破壊しに、と彼女は言う』、残雪の『黄泥街』などを遥かに超え、最早ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の域にまで達しています。
『公園』は、公園に面したアパートに住む「僕」がノートに物語を書き続ける、といっても、代名詞でしかない「僕」「彼」「彼女」の様子が数多くの断片で語られるというもの。ストーリーは特になく、彼らの関係も最後まで明確になりません。
尤も『公園』は、何が起こっているのか分かりにくいとはいえ、何が書かれているのかと悩むことはない。ところが、『ドラマ』になると、今度はひとつひとつの文章が極めて抽象的になってしまいます。例えば、「世界は消滅し逃げ去って、こうして、日々のまわり道とひだのなかをたえず動きまわる一種の冷たい明証に達する」とか、「光は傾きはじめ、さっき彼がふれたと思った底は、いまや、突然晴れあがった空、青く黄色い空によって外から占めつくされている」といった具合。
幻想文学ともシュルレアリスムとも異なる、明確な意図を持った実験作であることは間違いないのですが、いかんせん難しくて、何となく「物語る人の物語を探す物語」といった程度のことしか理解できない……。
そして、『数』は、さらに手に負えません。漢字や数字、図形などが加わり、ますます理解を妨げるのです(普通は逆で、図は理解を助けるものだが……。また、漢字が読める僕らはまだしも、フランス人にとってはこれまた試練だったろう。写真)。
何しろ二百頁足らずの小説にもかかわらず、翻訳に四年、脱稿してから出版まで三年かかり、その間、訳者はこれを日本語にすることに何の意味があるのか悩み続けたそうですから、筋金入りの難解さです。
正直に告白してしまうと、僕にはお手上げです。
今回、久しぶりに読み返しましたが、途中で分からなく……いや、相変わらず最初から全く分かりませんでした。
強いていうなら、読み手の意識の改革というか、テクストが何かを与えてくれることを期待しない読みが必要となるのかも知れません。「何を語るか」とか「いかに語るか」といった問題を軽々と飛び越えて、読者が自らテーマをみつけ出さなくてはいけない文学という気がします。
それにしても、こうした小説を読む意味は那辺にあるのでしょうか(そもそも読めているといえるのかどうか定かでない)。
「ただ、格好つけてるだけではないのか」「小難しくて退屈で自己満足でしかない小説が増えたから、本を読む者が減ってしまったのだ」「楽しめない小説に価値などない」と感じる方もいると思います。
しかし、逆にいうと「作者の手によってすべてがお膳立てされており、読者は漫然と文字を追うだけで、物語も登場人物の心理も感動もスムーズに手に入る」などという小説こそ、果たして時間を費やす意味があるのか、と考えてしまいます。
これが目的であれば「小説を読むのは面倒臭いから、映画化や漫画化を待つ」とか「あらすじだけ聞けば、読む必要はない」となり、やがては本を読むことなどやめてしまい兼ねません。
十九世紀と異なり、手軽に楽しめる娯楽は山ほど存在します。映画や演劇、テレビといったライバルにない「携帯できる」という書籍のメリットも、ゲームや携帯電話の登場で完全に失われ、エンターテインメントとしての文学は最早、虫の息といえます。
今後、時間も手間も掛かる小説が商業的に生き残るためには、読みやすさや分かりやすさを追究するのではなく、自らの頭で考えて何かを見出す喜びを提案することが重要だと思うのです。
『数』にしても、初読では多分噛み砕くことはできないでしょう。僕のように、歳を取って再読しても歯が立たない者だっていると思います。
けれど、もしかすると、次に読んだとき、取っ掛かりくらいはみつかるかも知れない。
そして、そのときに得られる満足感は、懇切丁寧で優しい小説の比ではないはずです。
特に若い方であれば、知性と感性に磨きをかけ、こういう本に何度でも挑戦して欲しい。
自分の読みのレベルの確認にもなりますし、本来の読書の楽しみに気づくきっかけにもなると思います。
ただし、激辛カレーと同じように、まずは『公園』辺りから慣らして、徐々に厳しさを増してゆく方がよいでしょう。
余程の文学マゾじゃない限り、いきなり『数』の頁を捲ると、二度と小説なんて読みたくないと思ってしまわないとも限りませんから……。
※:書名の読みは「かず」ではなく、「のんぶる」で登録されているようだ。
『数 ―ノンブル』岩崎力訳、新潮社、一九七六
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