読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『日曜日の青年』ジュール・シュペルヴィエル

Le Jeune homme du dimanche et des autres jours(1955)Jules Supervielle

 自宅から車で二十分くらいのところに、老夫婦が経営している古本屋があります。チェーン店でも専門店でもない小さな店舗で、足の踏み場もないほど雑然と本が積みあがっている店です。

 主力商品は、アダルト雑誌、新しめのミステリーや時代小説の文庫本ですが、それらに混じって、なぜか昭和に刊行されたフランス文学が充実しています。
 店主が高齢の古書店の場合、たまたまよい本が残っていただけで、それらを買い占めてしまうと、それ以降、棚に変化が生じないケースが多い。ところが、この店の場合、訪れるたびに欲しい本が増えています。ウージェーヌ・イヨネスコもフィリップ・ソレルスもアラン・ロブ=グリエもジュリアン・グラックも、そして勿論、ジュール・シュペルヴィエルの『日曜日の青年』(写真)もここで購入しました。

 おじいさんは「こういう本が好きなの。じゃ、また仕入れとくよ」といっていたので、意図して並べてくれているようなのですが、いつ訪れても客は茶飲み友だちらしき老人しかおらず、僕以外に需要がないのだとしたら申しわけなく感じます(ネットで検索したら「品揃えが凄い」と書いている人がいた!)。

 フランス文学を扱っているからといって高尚ぶったりしません。相場よりもかなり安い(五百円以上の本はみたことがない)上に、レジで適当に負けてくれます。
 また、高いところの本を取るときは、本の山を整理してから、棚に足を掛けてよじ登ります。そのように苦労して取った本は半額くらいにしてもらえます。

 古書店が新規オープンしたと聞き、遠方まで足を運んでみると、セレクトショップ型でガッカリすることがあります。なぜなら、そうした店は本の数がやけに少なく、その代わり地元アーティストの手作りアクセサリー、ポストカード、CD、ZINE、Tシャツなど興味のないものが並んでいて、数分と経たずにみるものがなくなってしまうからです。
「洒落た内装」「凝ったショップのロゴやホームページ」「センス抜群の店長がこだわり抜いた品揃え」「コーヒーを飲みながら本をじっくり選べる落ち着いた空間」「朗読会などのイベント」は、僕にとって何の意味もありません。望むのは、珍しい本を安く売ってくれることだけなのです。

 というわけで、上記の古本屋は、その理想にかなり近いといえます。誇張抜きで雪崩のようになった本の山から、昭和初期に刊行されたピエール・マッコルランやウジューヌ・ダビの訳本を発掘したときの喜びは、古本屋好きであれば理解していただけるでしょう。
 ただし、ご夫婦ともに高齢のため、いつ閉店してもおかしくなさそうなのが気掛かりです。店のファンのためにも末永くお元気でいていただきたいものです。

 閑話休題
『日曜日の青年』は、一九五二年に刊行され、その後、「後日の青年」「最後の変身」という続編二編を加えたものが一九五五年に出版されました。日本語版は、これを翻訳したものです。
 日本語の本なのに、表紙に日本語が一切記されていないという不思議な装幀です。

日曜日の青年」Le Jeune homme du dimanche(1952)
 主人公は高校を出たばかりのフランス人の青年で、フィリップ・シャルル・アペステーグの名で詩を書いています。彼は、南米からきた代議士のフィルマン、その妻のオブリガチオン(「債券」という意味)、彼女の妹のドロレスと知り合います。
 毎週日曜日、オブリガチオンにスペイン語を習っているフィリップは、若く美しい彼女に熱烈に恋をしてしまいます。

 オブリガチオンに抱きついてキスをしたフィリップは、「出ていけ」といわれ、蝿に変身します。彼は、新婚夫婦の生活を目撃し、激しく嫉妬します。
 その後、猫に変身したフィリップは、フィルマンから借金の悩みを打ち明けられます。「やがて、フィルマンは友人から預かった金に手を出し、それを恥じて拳銃自殺します。
 オブリガチオンとドロレスは南米へと帰ることになりました。そして、フィリップは、オブリガチオンの肉体に入り込むのです。

後日の青年」... et des autres jours(1954)
 オブリガチオンは、船のなかで妊娠に気づきます。一方、フィリップは、オブリガチオンから小人の医師ギュチエレッツの体に移ります(望んだわけではなく、勝手に移ってしまう)。
 サン・ペドロ・デル・チャコ(San Pedro del Chaco)に着き、医師としての名声を得たギュチエレッツは、母となった未亡人のオブリガチオンに求婚するものの拒否され、拳銃自殺しようとしますが、視覚を失っただけで生き残ります。
 フィリップは、フランスに置いてきた自分と久しぶりに再会し、元の体に戻ります。

最後の変身」Dernières métamorphoses(1955)
 フィリップとオブリガチオンは、ギュチエレッツの媒で結婚することになりました。ギュチエレッツを連れパリへ戻った夫妻でしたが、ギュチエレッツは亡くなります。
 休暇を取り、ひとり旅に出るフィリップ。マルセイユの友人に紹介された女性と一夜をともにし、その体験を元に詩を書きます。


『日曜日の青年』は、変身譚(人間や動物が、異性や別の生物に変身する物語)であり、様々な生物に憑依する話でもあります。
 例えば、蝿になったとき、それがスリッパで潰されると人間に戻ります。魂が別の生きものに入り込んでいるときは、抜け殻になるのではなく、ただの肉体として存在し続けます(魂と肉体が会話したり、体の器官が話し合ったりする)。
 また、他人の体に入っても行動を制御できるわけではなく、飽くまで居候のようにそこにいるだけです。
 この辺りの描写は曖昧ですが、シュペルヴィエル得意の「一見すると童話のようにほのぼのしていながら、よく考えるとエロティックな要素が強いと気づく仕掛け」でもあるので、目くじらを立ててはいけません。

 この不思議な設定は、肉体と精神の解離といったテーマを表したものと考えがちです。実際、シュペルヴィエルは、魂の大きさに比べ、それを収める器が貧弱であることを嘆く詩を書いています。
 勿論、そうした意図もあると思いますが、それよりも強く感じるのは性的な要素なのです。ある意味、フィリップは窃視症(覗きや出歯亀)を患っているとさえいえます。

 新婚夫婦の愛の営みを観察し、オブリガチオンとして子を宿したことを感じ、小人になって悪所で女性に弄ばれる……といった行為に、彼は明らかに性的興奮を感じています。
 自分の意志で体を操れるならともかく、本体に従うだけなのですから、これは奇妙な形の覗きといってよいと思います。

 実をいうと、フィリップは、オブリガチオンを手に入れた後の物語「最後の変身」では一度も変身をしません。その代わり、浮気をきっかけにして、オブリガチオンへの深い愛と執着を詩にするのです。
 あれほど恋い焦がれた女性をようやく手にしておきながら、何と屈折した愛情表現でしょうか。

 覗きは、背徳感によって、より強い快感を得ることが目的ですが、相手に面と向かって気持ちを伝えられない臆病さをも表している気がします。
 オブリガチオンに拒絶されたショックで蝿に変身し、その後は傷つくのを恐れ、他人のなかに隠れる。愛する人を手に入れてからも自信を持てない……。
 フィリップは、シュペルヴィエルと同じく、孤児で病弱な詩人です。孤独と死に常につきまとわれている彼にとっては、これが最も自然な愛の形なのかも知れません。

『日曜日の青年』嶋岡晨訳、思潮社、一九六八

→『火山を運ぶ男ジュール・シュペルヴィエル

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