読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『缶詰横丁』ジョン・スタインベック

Cannery Row(1945)John Steinbeck

 終戦の年に発表されたジョン・スタインベックの『缶詰横丁』(写真)は、戦争文学ではありません。
 当時の読者の多くは『月は沈みぬ』のような作品を期待していたそうですが、スタインベックカリフォルニア州モントレーにある「缶詰横丁(キャナリーロウ)」(※)を舞台に、大恐慌時代の人々の生活を描きました。

『缶詰横丁』は、『二十日鼠と人間』や『怒りの葡萄』などと同じく、貧しい人に目を向けていますが、明確な主人公もストーリーも社会批判もなく、横丁の住民の小さなエピソードを積み重ねています。
 いわゆる小品ですが、だからこそ大作にはないユーモラスな味わいを楽しめるのです。

 キャナリーロウには、イワシの缶詰工場が立ち並び、イワシが水揚げされると工員がどっと集まってきます。イタリア系、中国系、ポーランド系の労働者が多く、彼らはリイ・チョンの食料品店、マダム・ドオラの娼館などに屯します。
 ある日、チョンは借金の形に手に入れた魚粉倉庫を、ホームレスのマックとその仲間に貸すことにします。マックらは定職も金もありませんが、自由気ままに人生を謳歌しているのです。

 同じ大恐慌の頃を描いていても『二十日鼠と人間』の季節労働者、『怒りの葡萄』の農夫と異なり、マックらは何にも縛られない自由人です。
 金がなくなると、缶詰工場で働いたり、バーテンをしたり、ドクと呼ばれる海洋生物学者エド・リケッツがモデルといわれる)の手伝いをしたりして日銭を稼いでいます。バーテンダーは客の残した酒を混ぜ合わせたものを持ち帰り、マックは口八丁手八丁で、金もないのに必要なものを手に入れます。
 不景気など何のそのの、悲壮感のない楽しい日々がそこにはあります。

 スタインベックは、季節労働者としての経験から『二十日鼠と人間』を書きましたが、『缶詰横丁』はキャナリーロウで暮らしていた幸せな日々を文学として記したといわれています。
 だからこそ、『二十日鼠と人間』とは打って変わって幸福感に満ちているのです。
 マックやドク、チョンが登場するメインストーリーの合間に、横丁のスケッチというべき短い挿話が挟み込まれることからもノスタルジアを重視していることが分かります。

 日本人であれば、漁師町である浦安(浦粕)で暮らした若き日々を描いた山本周五郎の『青べか物語』(1961)と共通点を数多く見出すでしょう。
青べか物語』は、蒸気河岸の先生と呼ばれた「私」が、浦粕の人々をシニカルな視線でみていましたが、『缶詰横丁』にはスタインベックと思しき登場人物は現れません。その代わり、どのキャラクターにも愛情がたっぷりと注がれています。彼は聖書に多大な影響を受けた作家として知られていますが、この小説ではマックたちを力天使になぞらえるほどです。

 メインの物語は、正直、大して面白くありません。
 人々から慕われているドクのために、マックらは蛙を採集し、ドクの留守の隙に部屋を飾り立て、パーティをしようとします。ところが、酔っ払いが迷い込んできて、ドタバタの末、部屋中のものを破壊してしまいます。
 怒ったドクは、マックを打擲し、それ以来、両者の間には溝ができます。
 その後、マックたちは再びパーテイを企画し、今度は成功してメデタシメデタシとなります。

 スタインベックの小説は悲劇で終わることも多いのですが、この小説は最後まで幸福に包まれています。
 自殺が二件、溺死が一件起こるものの、『二十日鼠と人間』のような衝撃はありません。飽くまで、それらもキャナリーロウの日常の一部として処理されるのです。
 長引く世界大戦で疲弊していた国民のために、波乱のない、楽しい気持ちになれるような作品を執筆したとも考えられますが、ひょっとすると、スタインベック自身が戦争にうんざりしていたのかも知れません。

 なお、スタインベックは、ドクというキャラクターが気に入ったのか、『たのしい木曜日』Sweeet Thursday(1954)という続編も書いています。こちらは『Pipe Dream』というミュージカルにもなっています。

※:ボブ・ディランの『Sad Eyed Lady of the Lowlands』に「With your sheet-metal memory of Cannery Row」という一節がある。これはディランの最初の妻サラ・ロウンズの父親の職業と関係があるらしい。

『罐詰横丁』石川信夫訳、荒地出版社、一九五七

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