Il disprezzo(1954)Alberto Moravia
アルベルト・モラヴィアは十七歳のとき、『無関心な人びと』を書き始め、二十二歳で出版すると、イタリア文学史上最大といってよい反響を齎します。
一時ファシスト政権に弾圧されるものの、第二次世界大戦後は話題作を数多く上梓し、『ローマの女』によって世界的な作家となりました。その後、八十歳を過ぎるまで精力的に活動します。
『倦怠』(※1)辺りから性に関する具体的な描写が増えたため、そうした作品が余り得意ではない人には敬遠されがちですが、実は日本の私小説と共通する部分が多くあります。
特に『軽蔑』(写真)は、若い夫婦の愛と性、すれ違い、孤独などを、夫の一人称によって掘り下げた作品で、時代や文化を超えた普遍性を持っています。
しかも、前衛に傾いていないので、腰を据えてじっくりと取り組むことができるでしょう。
劇作家志望のリカルド・モルテーニは、貧しく、教育を受けていないタイピストのエミリアと二年前に結婚します。しばらく貸間で生活していましたが、エミリアのことを考え、アパートを購入することにしました。
ローンを支払うため、リカルドは、プロデューサーのバティスタに接触し、やりたくもない映画のシナリオの執筆を始めます。その頃から、エミリアの態度に変化が起こり、リカルドは「自分がもう愛されていないのではないか」と疑います。
そんなとき、バティスタから、ドイツ人の映画監督ラインゴルトを紹介され、ホメロスの『オデュッセイア』を映画化することを聞かされます。ラインゴルトは「オデュッセウスはペネロペーを愛しているものの、ペネロペーの方は愛情が喪失している。ただし、貞淑さは失っていない」という主題で脚本を書くよう勧めます。
それは正に、リカルドの家庭で起きていることでした。
やがて、モルテーニ夫妻は、バティスタ、ラインゴルトと映画の打ち合わせのため、カプリ島に向かいます。
そこでリカルドは、妻に接吻しているバティスタを目撃してしまいます。
夫婦の関係が冷めてしまうのには、様々な要因が考えられますが、リカルドの場合、一言でいうと「軽蔑」になります。
この小説はリカルドの一人称なので、それを信じるとすると、彼は浮気もせず(一度だけタイピストとキスをした)、妻を愛し、そのために不本意な仕事を続けています。
一方、エミリアは貞淑な妻であり、ほかの男に心を奪われているわけでも、リカルドとの性交渉を拒否するわけでもありませんが、彼への愛がなくなってしまいます。
倦怠期ならいざしらず、まだ新婚のうちにそのような変化を齎したことをリカルドは訝しみますが、いくら考えても原因が思いつかず、前述の如く、軽蔑という言葉で表現するほかない状況に陥るのです。
そこでリカルドは軽蔑の源を突き止め、エミリアの愛を再び得ようとするものの、一度失った想いを復活させるのが途轍もなく困難なことはいうまでもないでしょう。
男性の読者は、エミリアの仕打ちが理不尽に写ると思います。けれど、彼女は気まぐれな猫のような女性ではありません。愚鈍とまではいきませんが、学がない分、軽蔑するという感情は観念的ではなく、真実を突いているようにみえます。
要するに、リカルドは仕事で成功しても大金を稼いでも、どうにかなる勝負ではなく、正に絶望的な立場に追い込まれるのです。
ここでヒントになるのが、リカルドが脚本を書くことになった『オデュッセイア』です。ラインゴルトは、この叙事詩を、次のように読み解きます。
平和主義者のオデュッセウスがトロイア戦争に出征したのは、ペネロペーとの夫婦仲が冷え切っていたため。だから、オデュッセウスは帰還できなかったのではなく、帰ってきたくなかったことになる。夫を軽蔑するペネロペーの愛を再び取り戻したのは、求婚者たちを次々に殺害したからだ。
つまり、リカルドが、エミリアの愛や尊敬を取り戻すには、妻に言い寄るバティスタを殺すことが求められます。
尤も、現代においては、本当に殺すわけにはゆきませんので、バティスタが与えてくれる仕事をきっぱりと断り、自分のやりたい戯曲を執筆することで、エミリアが見直してくれると考えたのです。
なお、モラヴィアは日本で行なわれた講演で「日常性を否定も肯定もせず、そのまま小説の中心に据えた最初の作品は、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』である」と語っています。また、作中ではラインゴルトの口を借りて、『オデュッセイア』は空間的な冒険譚ではなく、オデュッセウスの内面へと潜ってゆく物語であるともいわせています。
そう考えると、モラヴィアは、映画の脚本という形で『オデュッセイア』と『ユリシーズ』を換骨奪胎しようと考えたのかも知れません。実際、叙事詩の解釈には、かなりの頁を割いています(※2)。
さて、軽蔑されるに至った原因はというと、『オデュッセイア』では、オデュッセウスがペネロペーに言い寄る求婚者たちを退けなかったからです(飽くまで、ラインゴルトの説)。
エミリアもそれと同じように、「夫は仕事をもらうために、私をバティスタに差し出そうとしている」と感じたのではないかという結論に、リカルドは達します。
なるほど、それであれば筋は通ります。小説の構造としても、きっかけとなったシーンが冒頭に置かれていたため、伏線が回収されたような気持ちよさがあります。
しかし、それはリカルドが無理矢理こじつけた理由であり、人間の感情はそんなに単純ではないことをモラヴィアは仄めかしています。
実際、エミリアは捉えどころのない女性で、どう解釈してもしっくりきません。ですから、『軽蔑』の最適解は、他人の心を読み解くのを放棄することなのではないでしょうか。
リアリズムに徹してきたモラヴィアが、ラスト近くで突如、幻想的な場面を挿入するのは、答えを得ようともがくリカルドへの戒めともいえます。勿論、罰として謎を永遠のものにしてしまうことも忘れません。
最後に、『軽蔑』というと、寧ろジャン=リュック・ゴダール監督、ブリジット・バルドー主演の映画の方が有名かも知れません。モラヴィア原作の映画としては、ベルナルド・ベルトリッチの『暗殺の森』(小説の邦題は『孤独な青年』)と並んで知名度が高いのですが、いずれも難解な作品なので、原作も読みづらいと思われてしまう一因になっているような気がします。
リカルド同様、結婚二年目だったゴダールは、アンナ・カリーナとの関係に悩み、この映画を撮ったともいわれています。
映画では、リカルドがポール、エミリアがカミーユ、バティスタがプロコシュ、ラインゴルトがフリッツ・ラング(本人)となっています(日本版のWikipediaには、カミーユの職業が女優と書かれているが、小説と同様、元タイピストの専業主婦)。
ゴダールだけあって、映画だけみたらさっぱり意味が分かりませんが、実をいうと小説の重要な点はもれなく盛り込んであります(それをつなげる作業が難解だが……)。
とても美しい映画ですが、唯一の不満は、小説の肝ともいえるエミリアの「貞淑さ」が蔑ろにされている点です。カミーユが自分からプロコシュに接吻するのは明らかな間違いです。飽くまで、妻は曖昧かつ消極的でなければ、この物語は成り立ちません。
尤も、カミーユをBBが演じた時点で、小説とはかけ離れてしまうことは明らかです。彼女が魅力的すぎて、内容に関係なく、「彼女の前に出たら、大抵の男は軽蔑されて当然だよなあ」と思ってしまうので……。
※1:原題の『La noia』は、『倦怠』ではなく、「退屈」と訳した方がよかったのではないか。「倦怠」は年齢や体の疲れから気力が落ちているイメージだが、この作品は、少女が何となく抱いている「退屈」が重要な意味を持つからである。
なお、映画は、一九六三年の『禁じられた抱擁』、一九九八年の『倦怠』がある。ヒロインのチェチリアは華奢な少女で、『禁じられた抱擁』のカトリーヌ・スパークは適役だが、それに対抗したのか、『倦怠』のソフィー・ギルマンは正反対の豊満で田舎臭い女優で、吃驚させられた。
※2:『オデュッセイア』は、『軽蔑』が出版された年に、本当にイタリアで映画化されている(カーク・ダグラス主演の『ユリシーズ』)。モラヴィアは、映画製作が進行中であることを知らずに執筆したのか、それともスペクタル映画を批判したかったのか。
『軽蔑』大久保昭男訳、角川文庫、一九七〇
→『眠くて死にそうな勇敢な消防士』アルベルト・モラヴィア
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