読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ウンブラ/タイナロン』レーナ・クルーン

Umbra: Silmäys Paradoksien arkistoon(1990)/Tainaron: Postia toisesta kaupungista(1985)Leena Krohn

 フィンランドの女流作家レーナ・クルーンは、日本でも人気があるらしく、沢山の訳本が出版されています。
 映画『ペリカンマン』の原作である『ペリカンの冒険』や、諷刺小説『ペレート・ムンドゥス』なども訳されていますが、評価が高いのは何といっても『ウンブラ』や『タイナロン』といったマジックリアリズム小説です。
 といっても、南米やアフリカの小説と異なりストーリー性はほとんどないので、誰もが楽しめるわけではありませんが……。

 いずれにしても、代表作二編が一冊になった本書(写真)は、「どんな作家なんだろう」と思われた方にとって最適です。
 まずはこの本からクルーンの独特の世界に入り、気に入った方はさらに奥へと進まれるとよいでしょう。

『ウンブラ ―パラドックス資料への一瞥』
 パラドックスを収集する医師ウンブラの元に、様々な患者がやってきます。
 体で∞の記号を表す女性、瀕死のドン・ジョヴァンニモーツァルトのオペラの登場人物)、夢のなかで夫に逃げられたと気に病む女性、時間を逆行し若返ってゆく男、病んだロボットなどなど。

 ウンブラは精神科医ではありませんが、やってくるのは心を病んだ者が大半です。彼らに対して精神分析のようなことをするものの、治癒する過程を描いているわけではありません。どちらかというと、稀な症例を集める研究者のようです。
 また、小説としても筒井康隆の『パプリカ』のようなエンターテインメント性はなく、ごく短い幻想文学の連作短編のような趣です(倉橋由美子の『よもつひらさか往還』のような雰囲気か)。

 ウンブラは医師でありながら医学的な解決を選ばず、病気を哲学的に解釈しようとするのは、この小説のテーマが逆説にあるからでしょう。
 例えば、逆流する時の流れのなかにいる男性に対して、ウンブラは「別の宇宙を探すことをおすすめする」と提案するのです。
 これは正に、有名なゼノンの逆説の世界、永遠に亀を追い越せないアキレスや、飛んでいるのに止まっている矢とそっくりではありませんか。勿論、持っていた貨幣が「ただ(胃のなかに)行っちゃった」と表現する少女、夢のなかで行方不明になった女性の夫も同様です。

 空中で静止した矢どころか、嘘つきのクレタ人やシュレディンガーの猫がみえる者にとって、この世は正に異世界です。
 そう考えると、奇妙な患者たちや、実際に舞台の上で行なわれる強姦や殺人などは、ウンブラ自身が生み出したものといえるわけで……。要するに、ウンブラの物語そのものが逆説になっているわけです。

 一見正しそうにみえる推論が誤った結論を導くのではなく、誤った推論が正しい結論を導く世界とは、確かに『ウンブラ』のようなものかも知れません。
 ラストで、到頭ウンブラは、自らが存在しないことを証明するのですが、ここまでゆくと混乱は絶頂に達します。
 ともあれ、狂気の匂いがプンプンしながらも、どこか論理的(屁理屈ともいえる)なのが、この小説の魅力です。パラドックスや論理の遊びがお好きな方にはお勧めです。

『タイナロン ―もう一つの町からの便り』
 昆虫たちの住むタイナロンを訪れた「私」は、カミキリムシのヤーラの案内で、様々な昆虫と出会います。
 タイナロンとは、ギリシャペロポネソス半島の先端にあるタイナロン岬のことで、ここに冥界への門があると信じられていました。
 この名を用いたのは、ここが昆虫と人間の世界の中間に位置するからでしょうか。

 形式的には、二十八の手紙からなる書簡体小説ですが、手紙である必然性は特になく、いわば「虫の町便り」といった程度の意味合いです(手紙の相手は恋人らしいが、返事は一度もこない)。
 昆虫の町というと児童文学を思い浮かべる人が多いと思います。けれど、この作品はマジックリアリズムだけあって、リアリズムの文脈に、ごく自然に昆虫が登場します。

 なぜ昆虫なのかというと、やはり人間とは姿形もサイズも生態も大きく異なるからだと思います。そういう意味で昆虫は、哺乳類は勿論、人型の宇宙人や妖怪よりも異質な存在なのです。
 例えば、体が発光したり、家を背負って歩いたり、擬態したり、蛇のように長い隊列を組んで行進したりすることに対して「私」は、それがどのような感覚なのか全く想像できません。
 その最たるものが変態(メタモルフォーゼ)です。完全変態、不完全変態を問わず、それまでの人(虫)格を捨て、完全に別人(虫)になってしまう設定であるため、複数の人(虫)生が一体どうつながるのか、「私」は途方に暮れてしまうのです。

 だからといって、相手を理解しようとする姿勢は余り感じられません。
『ウンブラ』もそうですが、ファーストコンタクトもののSFというより、二次元の世界の住人が三次元の世界を理解しようとするかの如き空しさが漂っているのです。
 両者の間には、絶対に超えることのできない壁が立ち塞がり、いかなる努力も無駄と諦めているようにみえます。

 いや、それどころか、「私」は沢山の手紙を出している相手にさえ、果たして何かを伝えようとしているのでしょうか。返事がないと嘆きつつ、心を閉ざしているのは「私」の方という気がして仕様がありません。
 同じ人間同士、しかも恋人だとしても心を通じ合わせるのは難しい。ひょっとすると、人と虫よりも遥かに離れているのかも知れません。

 物語の最後、彼女は虫になって越冬することを選択したように読めますが、春になり変態を終えたとき、そこに新しい人生が待っているのでしょうか。

『ウンブラ/タイナロン ―無限の可能性を秘めた二つの物語』末延弘子訳、新評論、二〇〇二

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