読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『フォックスファイア』ジョイス・キャロル・オーツ

Foxfire: Confessions of a Girl Gang(1993)Joyce Carol Oates

 ノーベル文学賞の発表が近づくと、よく名前があがるのが、ジョイス・キャロル・オーツ
 何を読んでも面白い、外れの少ない作家のひとりですが、多作かつ様々なジャンル・長さの小説を書くタイプなので、追いかけるのが大変です。特に短編は、アンソロジーの常連であるため、とてもすべては拾い切れません。

 まあ、お見合いや合コンで「好きな作家は?」と聞かれたら、彼女の名前を出しておけば、相手が純文学好きだろうと、スリップストリーム好きだろうと、ホラー好きだろうと、SF好きだろうと、ミステリー好きだろうと、YA好きだろうと、ボクシング好きだろうと、「ほう。よい趣味をお持ちで」と感心されること請け合いなので、読まずとも覚えておいて損のない作家です。

 ……なんて偉そうにいうほど詳しいわけではなく、僕にとってオーツは飽くまで、読むのが辛くなるくらい痛々しい少女の姿を描いてくれる作家という認識です。といって押しつけがましくないので、辟易せずについてゆくことができます(例えば、吉本ばななが苦手な人でも多分大丈夫だと思う)。
 なかでも大のお気に入りなのが『フォックスファイア』(写真)。
『生ける屍』の訳者解説に『フォックスファイア』と『生ける屍』は共通点が多いと書いてありました。技法的にはそのとおりかも知れませんが、あっちは「ゲイの青年が黒人や少年を捕まえてロボトミー手術を施してゾンビ化させる」という話です(勿論、ジェフリー・ダーマーを意識している。現実の人物・事件をモデルにしているという意味では『ブラックウォーター』との共通点が多いかも)。雰囲気としては『アグリーガール』とか『フリーキー・グリーンアイ』とか『二つ、三ついいわすれたこと』といった思春期の少女が主役のYAに近いような気がします。

 オーツは一九三八年ニューヨーク生まれで、『フォックスファイア』の主人公たちと年齢も暮らしていた地域も近い。自分の分身とはいわないまでも、少なからず思い入れはあるはずで、その辺も興味深い点のひとつです(オーツは、語り手のマディが自分に似ていると述べている)。
 ま、ともかく、あらすじから紹介しましょう。

 非行少女のグループ「フォックスファイア」のオリジナルメンバー(五人)のひとりで、公式記録員だったマディは、四十年前のできごとを語り始めます。
 一九五〇年代、五人の少女は、リーダーのレッグズを中心に、固い絆で結ばれたガールギャング団を作ります。
 ギャングといっても単なる反社会的な集団ではなく、虐げられ、傷を負った少女たちが、仲間以外にはメンバーであることを秘密にして、大人たちに復讐するというもの。例えば、セクハラ教師の車に悪事を落書きしたり、性行為を迫ってくるおっさんを懲らしめたり、動物を虐待するペットショップをデモで閉店に追いやったり……。また、彼女たちは、お金を集めて恵まれない人に施ししたりもします。やがて、フォックスファイアの活動が知れ渡ると、仲間に加わりたいという少女が沢山現れます。
 ところが、ある日、仲間をかばったレッグズが逮捕され、矯正施設に送られてしまいます。そこから次第に歯車が狂い出し……。

 オーツはこれをマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』の少女版のつもりで書いたそうです。なるほど、共感を得られやすいテーマと高い物語性を備えており、それ故、二度も映画化されたのでしょう(※)。

 女性が男性より虐げられているかどうかは、時代や地域、本人の資質によっても異なるので一概にはいえませんが、少なくともフォックスファイアのメンバーはとても生きづらそうにしています。
 大人も子どもも、男も女も、教師も肉親でさえも敵となり、それら外敵に対して少女たちは固い殻を身にまとい、鋭い棘を生やして立ち向かいます。
 最初は下心のある男どもが脅威と思われましたが、レッグズは寧ろ同性の方が得体の知れない分だけ恐ろしいことに気づきます。
 また、人(特に女)をモノとして扱う資本主義、物質主義にも嫌悪感を抱き、心と心の結びつきを強く求めてゆきます。

 そんな彼女たちがガールギャングを形成したのは必然ともいえるなりゆきです。何しろ、心から信頼できるのはフォックスファイアの仲間たちだけだからです。
 ひとりひとりは決して強くないし、自信も持てないけど、仲間といると自分たちが特別であるかのように錯覚できる。
 特にレッグズというカリスマの存在は大きく、彼女を中心に強く結びつく様は、ある種の羨ましささえ感じさせます。それは十代の頃の、排他的ではあるものの真っ直ぐな気持ちを思い出すからでしょうか。

 とはいえ、綱渡りのようなギリギリのバランスを保っている集団は、遅かれ早かれ分裂する運命にありました。レッグズが矯正施設に送られた危機は何とか乗り越えたものの、それは破局の始まりでもあったのです。
 フォックスファイアの夢は、ひとつの家を持ち、誰にも頼らず彼女たちだけで暮らしてゆくことで、それは一応、実現しました。しかし、当然ながら資金繰りに難航し、美人局のようなことをして金を得るようになります。そして、さらなる大金を求め誘拐事件を起こしてしまいます。
 そうした行為は、彼女たちが嫌った人をモノ扱いすることにほかなりません。嫌悪する社会や大人と同じことをしてしまったのでは本末転倒もいいところです。

 ともあれ、一時期、フォックスファイアが飛び切りの輝きを放っていたことは確かです。
 レッグズはアウトローらしく格好よく姿を消し(死体はみつからず、後年、フィデル・カストロの演説写真にそれらしき姿が写っていた)、憧れていたボニーとクライドに近づきました。
 一方、マディは誘拐事件の直前、フォックスファイアを追放されてしまいます。これは、事件とかかわらずに済むようにというレッグズの配慮ですが、同志として燃え尽きることができなかったのは捕まったり死ぬより辛かったかも知れません。
 実際、この小説は、若かりし過去を告白するという形式ですから、マディのその後の人生が余計に色褪せてみえてしまいます。彼女は大学へゆき、短い結婚生活の後、五十歳になった今、天文台に勤めていますが、中途半端に終わってしまった青春の日々を今も引きずっているのか、余り幸福そうではありません。

 尤も、普通の人間は、若いうちに美しく散るなんてことはできず、老醜を晒すことになります。それでも、「死ぬには遅すぎる」といいつつ、退屈な人生を歩まねばならないわけです。

 レッグズになりたいと考える人はほとんどいないでしょう。レッグズのような友だちが欲しいとも思わないかも知れません。
 にもかかわらず、性別・時代・地域を飛び越えて、誰もがレッグズに憧れ、好きになるような気がします。
 それは、彼女が虚構のなかでしか叶えられそうにない無茶な夢をみせてくれる存在だからではないでしょうか。
 若い方は勿論、かつて若かった人たちの心にも響くお勧めの一冊です。

※:『フォックスファイア』は、一九九六年(このとき、レッグズ役はアンジェリーナ・ジョリー)と二〇一二年に映画化されている。いずれも日本未公開だが、後者はWOWOWで放送されたり、DVD化されている(タイトルは『フォックスファイア 少女たちの告白』ないしは『ガールズ・ギャング・ストーリー』)。
 邦訳は二〇〇二年だから、どちらの映画化とも無関係のようだ。


『フォックスファイア』井伊順彦訳、DHC、二〇〇二

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