Stealing Lillian(1972)Tony Kenrick
海外のユーモア小説ファンとしては、主に一九七〇〜一九八〇年代に、角川文庫から大量に刊行されたトニー・ケンリックを無視するわけにはゆきません(※)。
ケンリックは一九九一年以降、小説を発表しておらず、英語版のWikipediaもなく(唯一映画化された『上海サプライズ』のページに、辛うじて名前が載っている)、すっかり忘れられた存在のようですが、彼の小説とともに青春を過ごした日本のおっさんにとっては、いまだに眩しい存在です。
同じ時期に、同じ角川文庫から刊行されていたこともあって、僕のなかでケンリックは「天藤真の海外版」というイメージが定着しています。
特に『リリアンと悪党ども』(写真)は、ユーモア誘拐ミステリーとして『大誘拐』と並ぶ傑作なので、ぜひ比較して読んでもらいたい。
ケンリックのもうひとつの代表作である『スカイジャック』は、ルシアン・ネイハムの『シャドー81』にも引けを取りません。
『大誘拐』も『シャドー81』も新刊で読めるのですから、『リリアンと悪党ども』や『スカイジャック』もミステリーの古典として長く在庫を維持して欲しかった。ハヤカワ文庫か創元推理文庫だったら何とかなったかも知れませんが、角川文庫では無理でしょうね。
ケンリックの魅力は、ミステリーとしても、ユーモア小説としても優れている点です。
『スカイジャック』は、飛行機を消すという大掛かりなトリックを成功させるだけでも難しいのに、笑いどころが山ほどあるのが素晴らしい。
特に、偽スチュワーデスのアニーが機内で巻き起こす騒動は、本筋と全く関係ないものの、正に抱腹絶倒です。
一方、『リリアンと悪党ども』は、こんな話です。
ニューヨークで、旅行代理店に勤めつつ、職業紹介所も開いているバニー・コールダーは、口八丁手八丁で小銭を稼ぎまくっています。旅行を斡旋した人のアパートを、留守中に無断で貸し出すのも彼の手口のひとつで、ある日、エラ・ブラウンという美女のアパートを貸したところ、四組の夫婦が酔ってフットボールをしたため、エラ自慢のインテリアが滅茶苦茶になってしまいます。
弁護士に被害の相談にいったエラは、そこで移民局の役人を紹介され、以下のような説明をされます。アメリカに不法入国している四人の解放運動のメンバーが戦闘機を買う資金を調達しようとしている。それだけ巨額の金を得るには富豪の子女を誘拐するしかないため、先手を打って偽の家族を作り出す。ついては、エラとバニーには偽の夫婦になってもらい、偽の娘は孤児院から調達するつもりだ。
バニーは無断で他人のアパートを貸した罪を見逃してもらうため、エラは孤児の少女リリアンを気の毒に思い、計画に加わることになります。しかし、リリアンは一筋縄ではゆかない、すれっからしの少女でした……。
ケンリックの小説は、エンターテインメントのお手本のようです。
まず序盤で、奇抜かつスケールの大きな計画に主人公を引きずり込みます。偽の大富豪を作り上げ、娘を誘拐させて犯人を捕まえるなんて、よく考えると滅茶苦茶な設定なのですが、エンタメとしては全く問題ありません。
バニーとエラがその作戦に巻き込まれる過程もゲラゲラ笑いながら読めますし、一夜にしてアメリカ一の富豪を誕生させるという手口も豪快です。この段階ですでに、読者は完全に心を奪われているでしょう。
荒唐無稽な設定を彩るキャラクターも強烈です。
主人公のバニーは、ふたつの会社を掛け持ちしている(勤務中、理由をつけて席を外し、頻繁に二か所を往復する)というとんでもない男ですが、それに負けないくらいユニークなキャラが続々登場します。
リリアンは、九歳にしてタバコを吸い、競馬をし、汚い言葉遣いをする蓮っ葉ですが、人前では天使に変身する演技力の持ち主です。ほかにも、軍隊出身で柔道と拳銃のエキスパートである料理人のハートリー、間抜けな当たり屋コンビのシドとエロル、囚人を装って牢獄に入り情報を得るハウイーなどなどヘンテコな人物にはこと欠きません。
彼らが様々な種類の笑いを生むわけですが、人を傷つける笑いや、下品なギャグがほとんどないところは今の時代に合っていると思います(ちょっとだけエッチだけど)。
しかも、ケンリックの場合、スラップスティックの部分とサスペンスの部分が明確に分かれています。笑わせるときはとことん笑わせ、シリアスな場面や謎解きはギャグに逃げず、論理的に進行するのです。
キャラクターも、例えば、誘拐対策のエキスパートのダニエルや、解放運動のメンバー四人はドタバタに巻き込まれることなく、終始真面目に行動します。
事件に関して細かい点まできちんと考え抜かれている点は、非常に重要です。ユーモアミステリーだからといって何でもアリだと白けてしまうことがありますが、そうした心配は無用です。
ピエール・アンリ・カミでいうと、『機械探偵クリク・ロボット』はナンセンスが好きな人しか面白いと思わないかも知れませんが、『エッフェル塔の潜水夫』は誰が読んでも楽しめるはずです。
ケンリックは、後者の路線を追求したため、ブームといえるほど多くの人に読まれたのでしょう。
『リリアンと悪党ども』の最大の読ませどころは、誘拐犯との知恵比べです。
誘拐ミステリーも最近は、実は別の目的があったとか、そもそも誘拐ではなかったといった変則的なものが増えています。
その点、『リリアンと悪党ども』はストレートな身代金目的の誘拐であり、双方に知恵者を配置した上での斬新なアイディアと駆け引きという王道を楽しめます。
そして、ここに至って、前半で描かれたバニーのインチキ詐欺師ぶりが伏線として生きてきます。誘拐対策の専門家と頭の切れる犯人の対決は、リリアンの安全を無視したものであったため、バニーはふたりを出し抜き単独行動を取るのです。
身代金の受け渡し方法は犯人側が指定するため、アイディアを重視する誘拐ミステリーの場合、犯行グループの視点に立つことが多い。しかし、バニーは機知と度胸を売りにしています。つまり、圧倒的に犯人が有利な状況のなか、いかに相手を騙し、身代金とリリアンの両方を取り戻すかという難題に挑戦するのが、この小説の醍醐味なのです。
これ以上はネタバレになるため書きませんけれど、二転三転するラストの駆け引きとアクションはお見事です。
さらには、ケンリックのもうひとつの特徴であるハートウォーミングコメディ、ラブコメディの要素が加わり、とても心地よい読後感を得られます。
ケンリックの小説は、安価で入手でき、初期のものはボリュームも多くないため、ちょっとした暇潰しにも最適です。古書店の店先でみかけたら、ぜひどうぞ。
※:ケンリックは途中からシリアス路線になってしまった。下記の執筆順リストでは、『俺たちには今日がある』までがコメディ、『暗くなるまで待て』以降がシリアスといわれる。
『リリアンと悪党ども』上田公子訳、角川文庫、一九八〇
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