読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『酔いどれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行』ヴェネディクト・エロフェーエフ

Москва — Петушки(1973)Венедикт Ерофеев

 ヴィネディクト・エロフェーエフの散文詩『酔いどれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行』(写真)は一九七〇年頃に書かれ、サミズダート(地下出版)で人々に読まれてました。
 正式な出版は一九七三年イスラエルにおいてで、ソ連で刊行されたのは一九八八年、作者が亡くなる二年前のことです。

 ロシア人といえば、真っ先に思い浮かぶのが酒です。
 彼らは、アルコールが入っていればオーデコロンだろうと接着剤だろうと殺虫剤だろうと飲んでしまうといわれています。その手の逸話はインターネット上に沢山転がっており、体を壊す人や死に至る人も少なからずいるそうです。
 真偽のほどは定かではありませんが、少なくともロシアのアルコール消費量が他国と比較して多いのは間違いないでしょう。

 では、どうしてロシア人は大量の酒を飲むのか。
 寒いからという理由では納得できません。例えば、イヌイットには飲酒の習慣がなかったといいますから……。
 その答えが気になる方は、『酔いどれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行』を読むとよいかも知れません。ロシア人にとってアルコールとは何なのかを少しは理解できるのではないでしょうか(※1)。
 というわけで、まずはあらすじから。

 ヴェネディクト(ヴェーニチカ、ヴェーニャ)・エロフェーエフはモスクワに住んでいながらクレムリンをみたことがありません。なぜなら二六時中、酔いどれているからです。朝は気分が最悪で、迎え酒をしているうちに力が満ちてきます。
 そんな生活に嫌気が差したヴェーニチカは大量の酒を抱え、愛する女と息子のいるペトゥシキ行の列車に乗り込みます。奇妙な乗客相手に高尚かつ低俗、嘘臭くて真面目な会話を繰り返すヴェーニチカですが、いつまで経ってもペトゥシキに辿り着きません。やがて……。

 この作品は、大量のパロディから成っています。文学のみならず、ロシアの歴史、宗教、プロパガンダ、科学、音楽、絵画、彫刻などの捩りがあちこちに散りばめられています。脚注がほとんどないため、教養のない僕などは元ネタが何かはさっぱり分かりません。
 そういう意味では不親切な本なのですが、正直それらをこと細かに解説されたとしても面白さはさほど変わらないかも知れないと思います。「当時、ソ連で流行していた曲の歌詞を捩っている」という説明があっても、「へえ」と思うだけで笑えはしないでしょうから。
 そもそもロシアの文化に精通していない者が、ロシア人と同じように理解したいと考える方が不遜なので、細かい点は気にしなくてよさそうです。

 ただし、聖書との関連は無視できません。
 特にヴェーニチカの旅路は、キリストの受難になぞらえているようなので、それだけでもざっと頭に入れておくとよいと思います。

 二十歳のとき、孤独に苛まれたヴェーニチカは「起きている間は常に飲み続ける」「ぶっ倒れるまで飲み、目覚めたら翌々日だった」「見知らぬ家の玄関で目覚める」といった出鱈目な酒の飲み方を十年間続けます。それは孤独を紛らすためでも、感覚を鈍らせるためでもありません。寧ろ絶望感はより強くなるというのですから、飲酒は苦行の如きものです。

 ヴェーニチカは、ペトゥシキを理想郷のように考えています(※2)。夢も希望もないモスクワから光差すペトゥシキへの旅は、魂の浄化であり、救済でもあります。
 そんな旅のお伴にアルコールが欠かせないのは、前述のとおり飲酒が自分を苦しめ、繊細な心を剥き出しにしてくれるからでしょう。
 磔刑にされたキリストと同じ苦痛を自らに与えることで、光の世界に導かれると信じているようにみえます。

「酔いどれ」というと能天気なイメージがありますが、この作品はヨーゼフ・ロートの「聖なる酔っぱらいの伝説」同様、深い哀しみに彩られています。
 一方、語り口は陽気で饒舌でくどくてふざけている……、要するに酔っ払いそのものです(卑猥な部分は削除したらしい)。重苦しいテーマにもかかわらず、サラッと読めてしまうのはこの口調のお陰です。

 さらに、一か月の飲酒量のグラフや殺虫剤やシャンプーの入った危険なカクテルのレシピをあげたり、誰が酒を盗んだか推理小説のような展開があったり、ロシアの偉人の酒にまつわるエピソードを列記したり、革命を起こしノルウェーと戦闘しようとしたり、スフィンクスが謎解きを仕掛けてきたりと読者を飽きさせない工夫に満ちています。
 ちなみに、乗車券を持たないヴェーニチカは、検札係長のセミョヌィチに好色なお話をすることで只乗りさせてもらっています。

 そうした冗談やパロディの波に圧倒されつつ、ふと気づくと二時間十五分で着くはずのペトゥシキはまだ遠く、辺りは真っ暗になっています。
 そこは、ひとりの孤独な男の心の奥底であり、このとき、ヴェーニチカの肉体は「すでに滅んでいたのかも知れません」。いや、物語の冒頭とよく似た場面が繰り返されることを考えると、彼は見知らぬ家の入口の階段で「亡くなり、列車のできごとはすべて死後の世界だった」とも読めます。

 しかし、それだけではこの物語が悲劇か否か分かりません。
 ヴェーニチカが辿り着く世界には、果たして酒が存在するのでしょうか。

 なお、エロフェーエフは寡作で、『酔いどれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行』以外に目ぼしい作品を残していません。
 凄いものを書いてしまったため、その後、何を書いてよいか分からなくなってしまったようです。あるいは、『ペドロ・パラモ』のフアン・ルルフォ、『トンネル』のエルネスト・サバトらのように、もう書く必要がなくなったのかも知れません。
 それを嘆くのではなく、たった一作でも奇跡のような作品を作り出してくれたことに感謝したいと思います。

※1:酒を飲む理由は「絶望、貧困、無知」と説明されている。ロシアの文学者たちも、やはり「絶望」のために飲酒したのだろう。他方、ドイツ人のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが酒を飲まなかったのは、その代わりに登場人物に飲ませていたからだとか。

※2:実際のペトゥシキはモスクワから百二十五キロメートルほどにある小さな都市で、取り立てて特徴的なものはない。


『酔いどれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行』安岡治子訳、国書刊行会、一九九六