Золотой телёнок(1931)Ильф и Петров
イリフ、ペトロフの『黄金の仔牛』(※1)(写真)は、『十二の椅子』で孤軍奮闘したにもかかわらず、あっさりと殺されてしまったオスタップ・ベンデルを蘇らせて、再び活躍させた作品です。
ベンデルは人気キャラクターだったため、読者から抗議の手紙が沢山届いたのかも知れません。
ちなみに、死んだ人間がなぜ生きているのかについては何の説明もないのですが、ロシア文学ですから、まあよしとしましょう(物語の時代背景を比べると、『十二の椅子』より以前のできごとという可能性はない)。
タイトルの「黄金の仔牛」とは、旧約聖書の『出エジプト記』に登場する金の子牛像のことです。
モーセがシナイ山で神から十戒の石版を授与される間、イスラエルの民は待ち切れずに金の子牛の像を作り崇めていました。怒ったモーセは、偶像崇拝に走った民衆を三千人殺害しました。
人間の作った偶像を崇拝することは、神に対する冒瀆と考えられており、「黄金の仔牛」はその象徴といえます。
リオデジャネイロで暮らす夢を持つベンデルは、戦艦オチャコフの叛乱で有名になったピョートル・シュミット少佐の遺児を騙った詐欺をしていました。ところが、シュミット少佐の偽息子はロシアに三十人以上いて、収拾がつかなくなっています。
ベンデルはそのうちのふたりバラガノフとバニコフスキイを子分にし、タクシー運転手のコスレウィチも仲間に加え、より大掛かりな詐欺を計画します。莫大な遺産を相続したコレイコという会計係の金を奪おうというのです。
『十二の椅子』と同様、詐欺師ベンデルの活躍を描いています。前作は助っ人でしたが、今回はベンデル自身がボスです。尤も、助っ人といってもスポンサーのボロビヤニノフに遠慮している様子は微塵もなく、好き勝手に行動しており、それがベンデルの魅力のひとつでした。
『黄金の仔牛』では、さらに自由に動くことができます。例えば、足手まといだとしてもボロビヤニノフを切るわけにはいかなかったのが、今回は親分なので、分け前を調節したり、褒美を約束してやる気にさせたり、「馘首にするぞ」と脅したりできるわけです(実際は「ひとりが死に、残りふたりは自ら去ってゆく」)。
ベンデルは頭を使った詐欺にこだわり、強盗や窃盗はしないので、本来なら陽気な知能犯として認知された筈です。ところが、翻訳された時代のせいか、べらんめえ口調で訳されてしまいました。それによって粗野な悪人然とした雰囲気になっています。
さらには、ダイヤモンドを取り戻す手助けをするという大義名分があった『十二の椅子』と異なり、今回は単に私利私欲のための犯罪行為であることも印象をやや悪くしている要因かも知れません(ベンデルは、自らをエヴゲーニイ・オネーギンに譬えるなど、苦悩する青年と思っているらしい)。
一方、『十二の椅子』はバラバラになった十二の椅子を集めるため、それぞれの手口があっさりしすぎな面がありました。いわば連作短編集といった感じだったのです。
それに引き換え『黄金の仔牛』は、ひとつの大きな計画に向かって、物語が進みます。コレイコが思いを寄せるゾーシャや、警察に捕まったとき代わりに牢へ入ってくれる老人など様々なキャラクターが加わり、厚みも増してゆきます。
加えて、詐欺の対象となるコレイコは手強い相手です。前作ではぼけっとした人々を自由自在に操ってきたベンデルでしたが、コレイコは思い通りに動いてくれません。寧ろベンデルの方が押され気味で、何度か苦汁を嘗めさせられます。
そうした駆け引きの面白さは前作にはなかった要素です。途中から詐欺というより恐喝や強請になってしまうため、コンゲーム小説の傑作とはいえないかも知れませんが、ドタバタ喜劇としては十分に楽しめます。
被害者と加害者が仲よく旅をするなんて、いかにもスラップスティックらしい滅茶苦茶な展開ではありませんか。
さて、ベンデルは苦労の末、大金を手にします。しかし、ソ連は最早、彼のような人物が活躍できる社会ではありませんでした。
大金持ちになっても、組織や団体でなければホテルにも泊まれないし、車も買えないし、家も建てられないのです。そんな窮屈な世界に、自由人ベンデルの居場所はありません(※2)。
コレイコと別れ、再会した子分とも離れ、ゾーシャにはふられ、さらには頼みの綱の「黄金の仔牛(大金)」も幸福を齎してはくれませんでした。ベンデルは前作のように殺されこそしませんが、ほとんど社会から抹殺され、ルーマニアへの亡命にも失敗する有様ですから、惨めさでは本作の方が上かも知れません(一応、前向きなラストシーンが用意されているという点では、後味は若干マシか……)。
さらに、この作品自体も命を奪われてしまいます。イリフ、ペトロフの小説は、スターリン体制になって禁書に指定されたのです。
しかも、諷刺によって体制を批判したためではなく、滑稽な喜劇が社会主義に相応しくないと考えられたからだそうです。
笑いを認めない社会がどのようなものか、さほど想像力を働かせなくとも分かります。その程度の想像力すら持たない者が指導者になったのが、共産主義の最大の悲劇かも知れません。
ロシアにはアネクドートと呼ばれる政治を諷刺する小話があり、人々は粛清を恐れながらもこっそりと語り合っていました。国民は、決してユーモアが分からないわけでもないし、ユーモアを必要としないわけでもない。
もし『十二の椅子』『黄金の仔牛』という質の高いユーモア小説を堂々と読める社会であったならば、その後、多くのロシア産ユーモア小説の傑作が生まれていた可能性もあります。
ロシア人の独特なセンスと、ユーモア小説の伝統が結びついたら……と考えると、それはそれで恐ろしい気もしますが……。
※1:書名の読みは「きんのこうし」である。
※2:この小説では、当時のソ連の映画界の様子が少しだけ描かれている。
ハリウッドで一九二〇年代にトーキーが開発され、一九三〇年代には世界的にトーキーのブームが起こった。にもかかわらず、ソ連ではトーキー設備がほとんど普及しなかった。ソ連初のトーキー『人生案内』Путёвка в жизньは、『黄金の仔牛』と同じ一九三一年の公開であるため、執筆時点では国産トーキーはなかったと思われる。
シナリオを撮影所に持ち込んだベンデルは「サイレントなんて撮っても誰もみないが、トーキーを撮る設備がない」という理由で追い払われてしまう。こうした諷刺は、当時の状況を理解するうえでとても役に立つ。
『黄金の仔牛』世界大ロマン全集17、上田進訳、東京創元社、一九五七
→『十二の椅子』イリフ、ペトロフ
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