読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『時の矢 ―あるいは罪の性質』マーティン・エイミス

Time's Arrow: or The Nature of the Offence(1991)Martin Amis

 マーティン・エイミスは、『ラッキー・ジム』のキングズリー・エイミスの息子です。
 最も有名な作品はロンドン三部作の『Money』『London Fields』『The Information』ですが、いずれも翻訳はされていません。しかし、それらに挟まれるように書かれた『時の矢』(写真)は、我が国でも出版されました。
 この小説はブッカー賞の最終候補になっている(その年の受賞作はベン・オクリの『満たされぬ道』)ので、マーティンの代表作といっても過言ではないわけです。

 とはいえ、「暇になっちゃったから、面白くて肩の凝らない小説が読みたいなあ」なんて方は、手を出さない方が無難です。
 いわゆる「普通の小説」とは余りにかけ離れているため、覚悟を決めてかからないと、十頁も読まないうちに頭が痛くなるからです。
 まずは、以下の説明を読んで興味を引かれるかどうか試してみてください。

 臨終の場において人生を回想する物語は数多くありますし、起こったできごとと、それが語られる順番を入れ替えた錯時法は、文学の基本的なテクニックとさえいえます。ドン・デリーロの『アンダーワールド』やハロルド・ピンターの戯曲「背信」のように、章や場が進むにつれ時代が遡る作品もあります。
 レトリック以外で、逆行する作品をいくつかあげると……。

長編
『逆まわりの世界』
フィリップ・K・ディック
:死者が蘇ったり、食べたものを口から出したりと、フィルムを逆回転させているような世界。
ウンブラレーナ・クルーン:時間を逆行して若返ってゆくと思い込んでいる「氏ンイケ」が精神科医の診察を受ける。その兆候が現れたのはいつかと質問すると「来年です」と答える。
スローターハウス5カート・ヴォネガット:主人公が過去を何度も追体験する。
『隠生代』ブライアン・W・オールディス:実は、時間は過去へ向かって流れており、人の意識がそれを逆に認識していたという説が唱えられる。
アイオワ野球連盟W・P・キンセラ:時間の裂け目を抜けて架空の過去へ飛んだ主人公は、そこで「逆戻り病」という赤子に戻ってしまう病気に出合う。

短編
「ベンジャミン・バトン」
F・スコット・フィッツジェラルド
:七十歳の老人として生まれ、次第に若返ってゆく(角川文庫『ベンジャミン・バトン』に収録)。
「逆行魔」ティーヴン・リーコック:ジャギンズという男は何ごとも過去に遡らないと気が済まない。例えば、フランス語を学ぶときは、古フランス語とプロヴァンス語を先にマスターしなければならず、さらにラテン語サンスクリット語、古代イラン語と遡ってしまう(早川書房ユーモア・スケッチ傑作展1』に収録)。
「ミスターFはミスターF」J・G・バラード:どんどん若返るチャールズ・フリーマン。妻が期待している赤子が自分だと気づき、胎児になり妻の子宮に戻ってゆく(東京創元社『J・G・バラード短編全集2』に収録)。
「若くならない男」フリッツ・ライバー:時間が逆行を始めた世界。皆が若返り、歴史が遡るなかで、たったひとり若くならない男がいる(ハヤカワ文庫『ボロゴーヴはミムジイ』に収録)。

 なんて感じでしょうか(※)。
 最近では、クリストファー・ノーラン監督の映画『TENET テネット』が時間の逆行を扱っているそうです(未見)。

 それに対して『時の矢』は「主人公の魂が、人生の終わりから始まりに向かって一人称で語ってゆく小説」です。
「逆向きに語る」とはどういうことかというと、例えば、食事をする場面は「いろいろなものがゲボゲボと口の中に込み上げてきて、それを舌と歯で巧みに揉んだ後、皿へ戻し、ナイフとフォークとスプーンで追加的彫刻をする」といった具合に、逆回しのフィルムをみているかのような描写になります。

 さらに、単語も逆の意味になるため、「急停車」と書かれていたら「急発進」だと思わなくてはなりません。
 会話も、「八十一歳です」「年齢は?」のような順序になっているため、後ろから読まないと問いと答えが一致しません。
 最初のうちは「ウユ・ア・ウハ?」(How are you?)のように書かれていますが、さすがにそれでは読みづらすぎるので、作中において「逆回転に翻訳した」と説明されます。
 要するに、パズルをルールに従って解く感覚で読んでゆく必要があるわけです。

 また、語り手は厳密にいうと主人公ではなく、主人公の魂です。そのため、「トードと私は……」といった、奇妙な語り口になっています。
 訳者は、エドガー・アラン・ポーの「鋸山奇談」という先例があると書いていますが、これは、山を彷徨ううち、かつてインドで起こった反乱で命を落とした士官と同じ体験をしてしまう男の話で、特殊な叙法は用いられていません。
 寧ろ近いのは、多重人格者が一人称で語るタイプの小説ではないでしょうか。

 このように、『時の矢』はかなり特殊な作品です。「あれっ。小説ってこんな風に読まなくちゃいけないんだっけ」という素朴な疑問が頭をもたげたりしますが、深く考えすぎない方がよさそうです。
 似たようなことをしている例はちょっと思いつかないので、実験小説がお好きな方はぜひ押さえて欲しいと思います。

 前置きはこれくらいにして、あらすじを記します。
 この小説の場合は、普通に読むと何が何だか分からなくなるため、事前に梗概を頭に叩き込んでおいた方がよいかも知れません。
 なお、小説と同様、あらすじも逆から(本書の記述どおり)書いてみます。読みにくいと感じた方は、句点を一区切りにして、おしまいから遡ってみてください。

 やがて、トードは年老いて、ニュージャージーの病院で亡くなります(一九九〇年頃か)。イレーネに秘密がバレ、別れを告げられたショックのせいでトードは自動車事故を起こします。
 トードはここでも多くの女と関係を持ちますが、イレーネだけは彼を見捨てません。そして、掃除婦から医師になります。ヤングは、ニコラスの助言に従い、ニューヨークからニュージャージーに移り、トード・T・フレンドリーという新しい名前を手にします(一九五〇年代末)。
 ニコラス・クレディター神父より、ジョンの過去がバレそうになっているとの情報を得ます。ルックスのよいジョンは、複数の女性看護師と職場でセックスをします。老娼婦のイレーネには里子に出した女の子がいることを知ります(ジョンの子かも?)。一九四八年、アメリカに渡ったハミルトンは、ジョン・ヤングという名で、外科医として救急病棟に勤務します。
 ハミルトンは、ローザという少女に執着します。オディロは第三帝国の崩壊とともにドイツを逃げ出し、ヴァチカンを経由して、ポルトガルへゆき、ハミルトン・ド・スーザを名乗ります。
 オディロ夫妻はペンフレンドのような関係になります。一九四四年に、ヘルタは初めてアウシュビッツを訪れました。ヘルタは夫の仕事を怪しみ、流産をします。オディロは、アウシュビッツ強制収容所に配転され、さらに多くのユダヤ人を殺害します。安楽死という名の殺害行為によって、オディロはインポテンスになり、妻のヘルタは妊娠します。医師になったオディロは、ハルトハイムの安楽死施設で働きます。オディロ・ウンファドーベンは一九一六年にゾーリンゲンで生まれました。

 逆に記すとややこしく感じますが、実際は「アウシュビッツ強制収容所に配属され、ペピおじさん(ヨーゼフ・メンゲレがモデル)の下でユダヤ人にフェノールを注射して殺害した過去を持つ医師の回想録」と簡単に説明できます。内容自体にも特に目新しさはありません。
 戦後生まれの英国人であり、医学が専門ではないエイミスが、ユダヤ人を大量に殺害した医師を主人公に選んだ点が珍しいとはいえますけれど、そこには余り興味を引かれないので無視することにします。
 それよりも重要なのは、この物語を、ふたつの特徴的な技法を用いて執筆したことです。その理由について考えてみます。

 まず、「主人公の魂」を語り手にした理由は、主人公の一人称では死んだ直後から語り始めるのが不可能であること、また時間に逆行して語るのが不自然であることに尽きるでしょう。
 つまり、作者は、どうしても時間を逆戻りさせる必要があった。そのために、明らかに歪な形を選択せざるを得なかったと考えられます。

 そうまでして逆語りをしたわけとは、ズバリ「ホロコースト」にあります。
 主人公は、医師という職業を選択したにもかかわらず、アウシュビッツにおいて「生」から「死」を生み出してきました。なるべく思考をせず、機械的に処理してきたものの、体は正直で、インポテンスとなって現れます。
 戦後、名前や身分を隠し、各地を転々としているときも、罪の意識に苛まれてきました。悪夢をみ、取り憑かれたように複数の女性とセックスをするのは、過去の亡霊に悩まされていたからに相違ありません。

 一方で「自己を正当化したい」「許しを得たい」という気持ちも持っており、それが逆語りの回想録になったといえます。
 ユダヤ人の殺害を逆回転させることによって、「死」から「生」が生まれます。破壊された体は命を吹き込まれ、後ろ向きに主人公の元を去ってゆくのです。

 アメリカに渡り、医師になると「病気や怪我」を「治癒」するわけですが、これは逆にしても死にはつながらず、「病気や怪我」の状態に戻るだけです。それすら長い目でみれば、いつかは健康が復活するのです。
 治療の甲斐なく死に至ったとしても、殺人と同様、巻き戻すことによって「生」を齎します。

 主人公は、妊娠や出産、子持ちの女性を嫌いますが、これは赤子が最も「死」に近い存在だからでしょう。
 幸い彼は産科医ではなく外科医なので、無に帰す出産にかかわり合わずに済みます。

 このように、主人公にとって逆語りほど都合のよい形式はありません。
 彼はナチハンターの追跡からまんまと逃げおおせただけでなく、死後、自分の人生の修復を試みるのです。

 副題に「罪の性質」とありますが、最も罪深いのは、ホロコーストに加担したことなのか、思考を停止して殺戮マシーンと化したことなのか、戦犯でありながら逃亡したことなのか、あるいは死してなお、自らの過ちをレトリックで誤魔化そうとすることなのか……。
 いうまでもなく、一般的に問題となるのは前三者です。それに比べたら、最後のことなど言葉の遊びと切り捨てられてしまうレベルにすぎないかも知れません。

 しかし、文学が追及すべきなのは正にそこだと僕は思うのです。
 文字や文学的技巧を用いて何が表現できるのかをとことんまで考え抜いた挙げ句、逆語りと罪の性質が結びついたのだとしたら、実験的な小説として確かな成果をあげたといえるでしょう。

 惜しむらくは、その読みづらさが災いして敬遠されるケースが多そうなことです。我こそはという文学猛者はぜひ!

※:日本の小説では、山田太一の『飛ぶ夢をしばらく見ない』が若返ってゆく女性の物語。なお、筒井康隆の「しゃっくり」という短編は、一九六五年に書かれたせいか「時間が逆行」「時間が逆戻り」と表現されているが、実際は典型的な「ループもの」である。

『時の矢 ―あるいは罪の性質』大熊栄訳、角川書店、一九九三