読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『死の勝利』ガブリエーレ・ダンヌンツィオ

Trionfo della morte(1894)Gabriele D'Annunzio

 古本を実店舗で購入する際、これまでに数々の失敗をしてきました。「ダブって購入してしまった」「カバーと本体が違う本だった」「書き込みが沢山あった」「一部が切り取られていた」「全巻セットだと思ったら抜けがあった」などなど。
 それらは、こちらが注意していれば防げるミスですが、ときには詐欺に近い手口に引っ掛かるケースもあります。

 ガブリエーレ・ダンヌンツィオの『死の勝利』(写真)の岩波文庫版は上下二分冊で、それぞれ一九六一年と一九六三年に刊行されました。その後、品切れになり、一九九一年と二〇〇七年に復刊をしています。
 僕は、神保町の某古書店で、紐で括られている上下巻を購入しました。紐は割ときつく縛ってあり、中身をみることはできませんでした。
 家に帰って紐を切ったところ、上巻は一九九一年版で、下巻は二〇〇七年版だったのです。両者は、中身は変わらないのですが、カバーのデザインが異なります。読む分には支障がないとはいえ、上下で違うデザインは何となく気持ちが悪いものです。それが分かっていたら、どんなに安くても購入はしなかったでしょう。
 で、後日、別のセットを買い直すことになりました。

 このケースは、古本屋の明らかな誤魔化しです。カバーが異なると売れにくいため、紐で括って分からないようにしたわけです(親切な古書店なら「上下でカバー違い」といった注意書きを貼っておくはず)。さらに、帯を外して本のなかに挟むという偽装工作までしてありました。
 その後、その古本屋にはいかなくなってしまったので、商売は正直にやった方がよいような気がするのですが……。
 ま、こういうこともありますから、紐で括ってあるセットを購入する際は注意してください。

 さて、ダンヌンツィオは、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて活躍したイタリアの詩人・小説家です。
 我が国では、明治時代にすでに翻訳され、若い世代に支持されていました。『死の勝利』も大正初期に石川戯庵や生田長江による訳本が出ています。
 ダンヌンツィオの影響を受けたことで有名なのは、三島由紀夫です。作品のみならず、行動にまで感化されたのでは、ともいわれています(三島事件など)。また、村松剛筒井康隆は「岬にての物語」が『死の勝利』に似ていると指摘しています。筒井によると、特に生田訳に文体までそっくりだそうです。
 また、森田草平平塚らいてうの心中事件も『死の勝利』に影響されたといわれています。
 それらは、ダンヌンツィオの作品が退廃的な世紀末芸術のひとつとして広く受け入れられていたことを証明するエピソードです。

 一方、ダンヌンツィオは創作と同時に政治活動も盛んに行なっていました。それはファシズムの先駆と評価されることがあります。また、ひまし油を飲ませ衰弱させるという拷問の考案者でもあります。
 そのせいか、今日では文学における業績まで無視される傾向があります(※1)。ナチスの支持者だったノルウェーの作家クヌート・ハムスンと同じような感じでしょうか。

 ジョルジョ・アウリスパは、敬愛する伯父デメトリオが自死したのをきっかけに、死に取り憑かれるようになります。
 それを振り払うため、麗しのイッポリタ・サンツィオへの愛と性欲に転嫁しようとしますが、街で自殺を目撃したり、伯父の未亡人に会ったり、子どもが病死や溺死するのを目の当たりにしたり、障害者や病人に取り囲まれたりすると、死の誘惑が湧き上がってきます……。

 ざっくりいうと自殺を扱った文学になりますが、ミハイル・アルツィバーシェフの『最後の一線』と異なるのは、愛と死の境が判然としないことでしょうか。
 ジョルジョはひとりでいると死のことを考えてしまい、イッポリタに会うと彼女が人妻だったことに嫉妬し、離れると会いたくて仕方なくなるという、傍からみると馬鹿みたいな悩みに苦しめられています。
 いってみれば、そんなおかしな苦悩を装飾華美な文章で上下巻分綴っているわけで、現代の読者からすると、暇を持て余している馬鹿息子としか思えないかも知れません。

 それはともかくとして、ジョルジョにとって真に心奪われるのは死なのでしょうか、美女なのでしょうか。
 熱烈に愛するイッポリタとは、人妻の彼女が子宮の病で死にかけていたとき出会いました。彼女のことは蒼白で弱々しく、死の似合う女性だと考えています。そうした記述から、イッポリタを死の象徴と見做すことができます。
 一方、イッポリタへの嫉妬は激しく、夫の存在や、自分が初めての男ではないことに苦悩する様は、非常に俗っぽく、死とはほど遠い気がするのです。勿論、それによって死の誘惑を退けているとも考えられますが、聖と俗の波が交互に襲ってくる様子は滑稽な印象を与えます。

 ところで、訳者によると、欧州では古くから「勝利」を主題にした文学作品が多いとのことです。例えば、フランチェスコ・ペトラルカの『勝利』という詩は「愛」「純潔」「死」「名声」「時」「永遠」の勝利を描き、後者が前者に勝るとされています。
 それを基に考えると、『死の勝利』は「愛」と「死」が戦い、最後に「死」が勝利する物語であるといえそうです。

 では、「死」の勝利とは、どういう意味かというと、最終章で、『トリスタンとイゾルデ』に感化されたジョルジョは、イッポリタの下劣で淫蕩な本質に我慢できなくなり、かといって矯正はできないと考えます。一方で、彼女に対する情欲はますます大きくなります。
 とどのつまり、イッポリタの側にいることも離れることもできず、かくなる上は「死」しかないと思い至ります。
 となると、残る問題は「ひとりで死ぬ」か「無理心中する」かしかありません(※2)。

 筒井は「ダンヌンツィオに夢中」で「今度これを書くにあたって読み返してみたのだがいやもうその陳腐さ退屈さはどう仕様もなく」と書いています。
 逆にいうと、現代の小説ではあり得ない贅沢な作品ではあるのです。
 大切な人が突然、自死を選択する。周囲の者は悩んでいる様子に気づかなかった。その人の足跡を追ってみるが、何も分からない。残された者は喪失感と様々な問いを抱えながら、再生を目指す……なんてのが文学的とされ、持て囃される昨今、ひたすら主人公の内面を掘り下げ、自死の理由やそこに至る心の動きをこれでもかと描写する小説は、とても新鮮に映ります。

 僕は、平易な言葉で書かれた説明文のような文体より、何重にも修飾され、雨に濡れた靴のように重くなった文章に魅力を感じるタイプだけに、なおさら楽しい。
 文学なんてのは実用価値のない趣味の世界だと思っているので、ひとつの感情や考えをああでもないこうでもないとこねくり回してくれるのは大歓迎です。

 そう書くと、単なるひねくれ者にみられるかも知れません。
 しかし、繰り返しますが、ダンヌンツィオの小説は十九世紀末から二十世紀初め、欧州や日本の読者に熱狂的に迎えられたという事実があります。それから百年経った程度では、人間の悩みは変わりません。つまり、丁寧に読んでゆけば、今の読者にも十分刺さるはずなのです。

 まあ、現代の若者はこんなのを読むほど暇じゃないでしょうが、読了後はSNSの文章に変化が現れるかも知れませんので、ぜひチャレンジしてみてください。

※1:二十一世紀になって、松籟社より「薔薇小説三部作」の『死の勝利』『快楽』『罪なき者』が刊行された。

※2:ネタバレになるので書けないが、ラストシーンが締まらない。


『死の勝利』〈上〉〈下〉野上素一訳、岩波文庫、一九九一