Господа Головлёвы(1875-1880)Никола́й Щедрин
ロシア人の独特なセンスはほかの国の人には理解しにくいため、インターネット上でよくネタにされます。当然ながら、ヘンテコさは文学にも表れています。
ロシア文学というと、フョードル・ドストエフスキーやレフ・トルストイといった文豪を思い浮かべる人が多いかも知れません。ところが、実際は首を三百六十度くらい傾げたくなる不思議な作品がやたらと多く、ぶっ飛び具合では世界一ではないかと思います(このブログでこれまで取り上げた作品のなかにも、おかしなものが沢山ある)。
ニコライ・シチェードリン唯一の長編小説である『ゴロヴリヨフ家の人々』(写真)も、なかなか癖の強い作品です。どんな話かというと……。
農奴解放令前後のロシア。地主のゴロヴリョフ家は、ヴラジーミル・ミハーイルッチ・ゴロヴリョフ(※)の妻アリーナ・ペトローヴナ・ゴロヴリョーヴァが実質的に支配していました。
しかし、夫や子どもたちは揃いも揃ってだらしなく、農奴解放令以後はアリーナも領地の統治者から、末の息子の食客となってしまいます。やがて、夫や子どもたちが次々に亡くなり、残ったのはアリーナが恐れる次男ポルフィーリイだけとなります。
兄に「吸血人」や「ユダ」という渾名をつけられたポルフィーリイは、強欲で吝嗇な性質です。
『ゴロヴリヨフ家の人々』は、文学的には一流と呼べないでしょう。シチェードリンは、オーチェルク(記録文学)を得意としており、小説の形式で執筆したことは滅多になかったそうです。そのため、技巧に乏しく、説明不足な部分があり、大して意味もなく場面が前後するなど意図を計り兼ねる部分があります。
尤も、それらは『ゴロヴリヨフ家の人々』の成り立ちと関係があるのかも知れません。この作品は、最初の五章が独立した短編として発表され、その後、二章を加えて長編化したものだからです。
『ゴロヴリヨフ家の人々』は、一般的には諷刺文学といわれています。地主出身で、官吏として農奴解放の実務に当たっていたシチェードリンは、その際に目の当たりにした数々の問題や不満を、この作品を通じて表現したというのです。
それだけだったら現代人が読むに値しないのですが、前述の通り『ゴロヴリヨフ家の人々』は規格外の要素を有しており、その点が今読んでも実に面白い。
具体的にいうと、主人公ポルフィーリイの造形が突き抜けています。
彼は、とにかく清々しいほど嫌な奴です。フィクションとはいえ、ここまで極端なキャラクターを登場させられるのはロシア文学だけではないでしょうか。
ほかの国であれば、「さすがにこれはやりすぎだ」と出版社や編集者がダメ出しをすると思います。
何しろ、ポルフィーリイは、破産した兄を救おうとした母に反対したり、臨終の弟の遺産を奪おうとしたり、息子のひとりを自死に追い込んだりします。もうひとりの息子が公金を賭けですってしまったときも助けてあげる気はさらさらなく、結局、その息子は僻地へ飛ばされる途中で病死してしまいます。
ほかにも家政婦を孕ませておいて、生まれた子に会わせる前に養育院に預けてしまったり、姪に手を出そうとしたりと人非人ぶりは徹底しています。
彼の凄いところは、身内が次々死んでしまっても心を痛めることもなく、人道に外れた行ないを反省することもない点です。それどころか、空想のなかで彼らに復讐するのですから、身勝手にもほどがあります。
また、息子が泣いて縋ってきても金を貸さない癖に、彼が去ってゆくときは長い間、十字を切り続けたりします。これなどは、明らかに自分に向けた偽善的なポーズです。
このように、ひたすらポルフィーリイの悪行を連ねてあるわけで、こうなると、地主の没落云々ではなく、「ポルフィーリイは、一体何のために生きているのか」に興味が向かいます。
両親、三人の兄弟、ふたりの息子、姪のひとりを亡くし(ミハイル・アルツィバーシェフの『最後の一線』のように、とにかく人が死にまくる)、あらゆる人に嫌われまくっても、人は生き続けたいと願うものなのでしょうか。
物語の終盤、ポルフィーリイはほとんど喋らず、部屋にいるときだけひとりごとをいったり笑ったりするようになります。
やがて、「彼が死に到らしめたもの」の亡霊に苛まれるのですが、そこに至ってようやくポルフィーリイの良心が目覚めます。
しかし、ときはすでに遅し。ポルフィーリイは、たったひとり残った姪に優しい言葉をかけ、死出の旅に出るのです。
とどのつまりは「人は、誰かに必要とされてこそ生きる価値がある」となりますが、上下巻を使って、こんな人物を創造してまでやることか、というのが正直な感想です。
勿論、これがロシア文学の醍醐味ともいえるので、時間があったら読んでみてください。
なお、シチェードリンは十九世紀の作家なので訳本の入手も難しいと思いきや、一九八〇年代には未來社より全八巻の選集が刊行されていたりします。日本人も相当変わっていますね。
※:書名は「ゴロヴリヨフ」だが、本文は「ゴロヴリョフ」となっている。
『ゴロヴリヨフ家の人々』〈上〉〈下〉、湯浅芳子訳、岩波文庫、一九四九