読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『飢ゑ』クヌート・ハムスン

Sult(1890)Knut Hamsun

 二〇一九年にノーベル文学賞を受賞したペーター・ハントケが、ジェノサイドの罪に問われたセルビアの元大統領スロボダン・ミロシェヴィッチの擁護者であるとして非難されました。
 クヌート・ハムスンも一九二〇年にノーベル文学賞を受賞していますが、ナチスの支持者であったため、第二次世界大戦後は自宅監禁や精神病院入院などを経て、悲惨な最期を迎えたそうです。

 ただし、ハムスンの政治的過誤は、彼がノルウェーの作家だという事情も考慮されるべきとの意見もあります。かつてノルウェーデンマーク王の配下にあり、公用語デンマーク語でした(その後、ノルウェースウェーデンに引き渡された)。そのため、ハムスンも北欧の文化の中心であるコペンハーゲンの出版社からデビューしました。
 さらに北欧の作家は、ドイツで受け入れられないと次のステップに進めないそうです。実際、『飢ゑ』(写真)はドイツで好意的に迎えられ、ハムスンに世界的な名声を齎しました。
 だからこそ、ハムスンは成功に導いてくれたドイツの肩を持ったのかも知れません。

 いずれにせよ、第一次世界大戦でのドイツ帝国支持や、ナチス支持はハムスンの晩年に起こったことであり、『飢ゑ』や『牧神』といった初期の作品とは切り離して考えるべきでしょう。
 特に出世作の『飢ゑ』は、その革新性故、影響を受けたと公言する作家が数多くいます(ハムスンは、読者より同業者に認められる小説家といわれている)。

 その『飢ゑ』の日本版は、一九二一年(大正十年)に、宮原晃一郎訳で新潮社より刊行されました。僕が持っているのはその文庫版です。俗に「舟絵」と呼ばれる柄つきで、現行のものより若干サイズが大きくなっています。そのほかに、三上於菟吉訳の『飢餓』もあり、こちらは一九二四年に出版されています。
 宮原訳は『飢え』として、創元文庫、角川文庫と渡り歩きましたが、一九七八年に学習研究社の「世界文学全集31」に入ったのを最後に姿を消してしまいました。
 常に文庫本で読むことができる状態にあるべき名作古典であるにもかかわらず、それが叶わないのがハムスンの過ちのせいだとするなら悲しすぎます。いつか、作品のみが正当に評価される日がきて欲しいと切に願います。

 クリスチャニアオスロの旧称。通常はChristianiaだが、作品が書かれた当時はKristianiaとも綴った)に住む貧しき文学青年の「僕」。原稿を書いて新聞社に持ち込むものの、滅多に採用されず、どんどん貧窮してゆきます。
 アパートを追い出され野宿をしたり、質屋を何軒回っても拒否されたり、食べものがないため鉋屑をしゃぶったりと惨めな生活が続きます。やがて、「僕」は船員となり、クリスチャニアの街を後にします……。

 ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』や、アルフレート・デーブリーンの『ベルリン・アレクサンダー広場』などと同じく「都市小説」に分類されますが、『ヴィクトリア』しか読んだことがない方は吃驚するかも知れません。ストレートな純愛小説である『ヴィクトリア』と異なり、『飢ゑ』にはストーリーがなく、「僕」がひたすら街を彷徨うだけの小説だからです。

 にもかかわらず、全く退屈しない理由のひとつは、「僕」の赤貧生活が文句なしに面白いからでしょう。
 事態が悪化するにつれ、どこまで落ちてゆくのかという期待感が増してゆきます。『ベルリン・アレクサンダー広場』の主人公フランツ・ビーバーコフは気の毒で放っておけないタイプですが、「僕」に対しては憐憫の情や応援する気持ちがほとんど湧かないのです。
 だからといって「僕」が嫌な奴かというと全くそんなことはありません。
 ほぼ採用される見込みのない原稿で生計を立てようとする無謀さがありますが、決して怠け者ではない。ハーマン・メルヴィルの「バートルビー」のバートルビーや、エマニュエル・ボーヴの『のけ者』のニコラに比べたら、遥かにまともな青年です。

 それどころか、馬鹿がつくほど正直で清白。例えば、一文なしのとき、店員が金を受け取ったと勘違いしてお釣りをくれました。「僕」は、不正に手に入れたそれを所持しているのが嫌で、菓子屋の老婆に恵んでしまいます。
 さらに、あろうことか、店に戻り、間違えたことを認識していない店員にそれをわざわざ教えてあげるのです(その金でビフテキは食うし、後日、老婆の菓子をいくつか奪うものの、どういうわけかそれらは悪という認識がない)。
 もう少し要領よく生きれば、これほど飢えはしないのでしょうが、根拠のない自信と潔癖さが彼をさらに追い詰めてゆきます。

 実をいうと、「僕」に感情移入できないのは、その高邁すぎる精神故です。塵垢にまみれたおっさんは、これほど気高いニーチェ的な人物に対して憧憬の念を抱くことができなくなっているのです……。
 しかし、日本文学を読み始めた若い読者であれば、突き刺さる可能性は大いにあります。

 というのも、『飢ゑ』は、正に「私小説」だから。
 私小説は日本文学独自の形式といわれていますが、『飢ゑ』は本家以上に本家らしく、文学青年による主観描写が延々と続きます。固有名詞を日本のものに置き換えれば、梶井基次郎の幻の長編といっても通用してしまうくらいです。
 このように、『飢ゑ』を面白く読めるもうひとつの要因として、日本には私小説の伝統があることがあげられるのではないでしょうか。

 ただし、『飢ゑ』は、「僕」の出自も、どんな教育を受けたのかも、物語が始まる前はどうやって食っていたのかも分かりません。おまけに、名前もないし、人とのつながりも希薄だし、所有物もほとんどない。
 要するに「僕」には過去も未来もなく、「今、この瞬間のみを生きている」のです。
 こんな純粋な小説は、正直ほかに思いつきません。『飢ゑ』を読んだ後では、イワン・ゴンチャロフの『オブローモフ』でさえ、無駄が多いと感じてしまうでしょう。

 実際、ストーリー、キャラクターなど付随物をすべて取っ払い、才能はあっても運に見放され、刹那的に生きる高潔な魂を描いた『飢ゑ』は、世紀をふたつ跨いでもなお、新鮮さを失っていません。
 何度も繰り返しますが、この傑作が気軽に読めない状況は本当に嘆かわしい……。全集に収録されたものなら比較的入手しやすいので、機会があれば、ぜひ。

『飢ゑ』宮原晃一郎訳、新潮文庫、一九三七