La Vie devant soi(1975)Émile Ajar(Romain Gary)
ロマン・ガリーはロシア生まれで、フランスに帰化した作家・映画監督です。映画ファンにとっては、ジーン・セバーグの夫といった方が分かりやすいかも知れません。
彼は一九五六年に『自由の大地』で、一九七五年にはエミール・アジャール名義の『これからの一生』(写真)でゴンクール賞を受賞しています。
ひとり一度しか取れないゴンクール賞を二度受賞した唯一の作家ですが、それというのも、ガリーとアジャールが同一人物であることは、彼が自殺した翌年(一九八一年)まで公表されなかったからです。
そのため、日本語版(一九七七年)の解説には「クノー、アラゴン、ギャリーが真の作者だとか、いろいろなことがいわれたが」と書かれているにすぎず、著者の経歴も写真も偽ものが掲載されています。
研究者にとっては重要かも知れませんが、個人的には偽名で受賞することの是非などに興味がないため、これ以上は触れません。
天涯孤独のアラブ人の少年モハメッド(モモ)は、マダムローザという元売春婦に育てられています。マダムローザはユダヤ人の娼婦で、ナチスに捕まりアウシュビッツに送られた過去を持っています。歳を取ってからは、売春婦の子どもを有料で育てる仕事を始め、モモのほかに六、七人の子を預かっています。
モモたちが暮らすベルヴィルというパリの貧民街には、ユニークな人が数多く住んでいます。モモは、彼らに囲まれて、強かに生きています。
主人公のモモは十歳前後の少年ですが、娼婦や女衒らとつき合っているせいか、やけに大人びています(物語の後半、実は十四歳であることが明らかになる)。
自分の親が何者なのか分からないので、児童文学であれば、それが最大の悩みであり、関心事になるかも知れません。
しかし、モモの心配はもっと現実的です。彼は「この先どうやって生きてゆくか」、つまり「これからの一生」について切実に悩んでいるのです。
というのも、保護者であるマダムローザは善人ではあるものの、太りすぎてアパートの階段も降りられず、歳を取り体の具合もよくありません。おまけに痴呆の症状が出始め、奇行が目立つようになります。
そのため、彼女がボケて長生きしたら、あるいは死んでしまった後、自分はどうなってしまうのか、モモは想像せざるを得なくなります。
マダムローザの体が弱ってから、モモ以外の子どもたちは別のところに引き取られてゆきました。けれども、モモは施設には入りたくありません。
また、マダムローザも、病院に入ることを断固拒否します。ボケが進行した彼女は、日に数時間しかまともな状態でいられず、糞尿を垂れ流しながらも入院だけは嫌がります。植物のようにただ生かされるなら、安楽死させて欲しいと考えているのです。
最初のうちは自分のことばかり考えていたモモでしたが、自分にとって唯一大切な存在はマダムローザであることに気づきます。そこでモモは、マダムローザを自分が看取ってあげようと決心します。
ちなみに、モモの父親(本当の父かは分からない)は物語の終盤に現れ、「売春婦だったモモの母を殺し、自分は精神病院に入っていた」ことを伝えます。
けれども、モモは両親に対して何の感情も抱きません。母が殺されていても、父が目の前で死んでしまっても涙ひとつ零さず、精神病が遺伝しないか心配するだけなのです。
ユダヤ人の年老いた娼婦と、アラブ人の天涯孤独な少年という正反対の存在が、社会の底辺で互いに寄り掛かる。片方は死ぬために、片方は生きるために……。
人種、宗教、社会的地位などを詰め込みすぎた陳腐な構図ですが、それでも胸が苦しくなるのは、「貧困」「老い」「痴呆」「孤独」といった、近い将来、自分に降り掛かってくるであろう難問を容赦なく叩きつけられるからでしょうか。
どこでどうやって死ぬにせよ、人間らしくとか、個人の尊厳といった綺麗ごとは早めに捨て去るべきだとつくづく思います。
マダムローザの一生は、碌なことがありませんでしたが、モモを始め貧民街の人々に愛されたのは救いでした。
僕なんかそれすらも期待できないと考えると気が滅入るけど、ま、それも人生ですね。
『これからの一生』荒木亨訳、早川書房、一九七七
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