読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『おっぱいとトラクター』マリーナ・レヴィツカ

A Short History of Tractors in Ukrainian(2005)Marina Lewycka

 マリーナ・レヴィツカの処女作『おっぱいとトラクター』(写真)は、ボランジェ・エブリマン・ウッドハウス賞やウェイバートン・グッドリードアワードを受賞しています。
 ウッドハウス賞を取るだけあって、質の高いユーモア小説なのですが、勿論ただ笑えるだけの作品ではありません。その話に入る前に、あらすじを記します。

 ウクライナから移住してきた四人家族。母のリュドミラは二年前に亡くなり、長女のヴェーラと次女で語り手のナジェジュダ(ナージャ)は相続の件でもめてからというもの、余り連絡を取らなくなります。
 そんなとき、八十四歳の父ニコライが、ウクライナの子持ち女性ヴァレンチナと再婚することになります。娘たちは猛反対しますが、父は意に介さず、ヴァレンチナは息子のスタニスラフを連れて乗り込んできます。ヴァレンチナは可憐なタイプではなく、派手で粗野で腹黒い女です。堂々と金をせびり、その癖、ニコライにも娘たちにも遠慮なく毒づきます。
 娘たちは父を説得し、婚姻無効の訴訟を起こし、同居差し止め命令を出してもらい、ヴァレンチナ親子は姿を消します。しかし、その後、ヴァレンチナが身籠っていることが分かったのです。果たして、父親は誰なのでしょうか。

 まず、ひとつ目の読みどころは「明らかに金目当ての中年女性」対「リベラルフェミニストの娘」という構図です。
 老人とグラマラスな美女の結婚は、ある意味、売春のようなものです(ニコライのペニスは「でれんこふにゃふにゃ」で使いものにならないが)。フェミニストがそれを由とするかは様々な意見があるでしょうが、ナージャは多様性の観点から「そんな恋愛もあり」と主張してしかるべきです。

 しかし、思想と現実は違います。
 ヴァレンチナがウクライナへかける長距離電話の料金や、家族に送る車の代金を貸して欲しいと父に頼まれるに至ってナージャは怒り狂い、姉と共謀してヴァレンチナを追い出そうと画策するのです。
 ガチガチのフェミニストが、家庭の都合に合わせてリベラルから極右へ変貌し、それを本人も認めているのが堪らなくおかしい。

 一方、男どもはヴァレンチナにすっかり参っています。
 金目当てであろうと、素行が悪かろうと、人生の終わりに若くグラマラスな女性と連れ添えるのは男の憧れです。遺産だって、口うるさい娘に残すくらいなら、パッと使ってしまった方がよいとニコライは本気で考えている風です。
 そんなニコライを、夫のマイクをはじめとする男たちは羨ましく感じています。彼らが「美人でボインなら、何をしても許される」と口を揃えるのをみて、自称「ブスでペチャパイ」の娘たちはさらに苛つきます。

 真面目に論じると大揉めしそうな問題ですが、レヴィツカはそこら辺をユーモラスに調理しています。
 最後まで、ヴァレンチナを嫌な女として描いている点にも好感が持てます。ホロリとさせるエピソードを態とらしく入れたりしないのに、ヴァレンチナに少しだけ共感できるようになるのは作者のテクニックが素晴らしいからでしょう。

 もうひとつの読みどころは、ニコライが執筆している『ウクライナ語版トラクター小史』(この小説の原題でもある)や、家族の回想からみえてくるウクライナの歴史です。

 ニコライの家族は、明らかにレヴィツカの家族をモデルにしています。
 レヴィツカの家族は第二次世界大戦後、ウクライナを離れました。マリーナがドイツの難民キャンプで生まれた後、一家はイギリスに移住したそうです。レヴィツカの父もエンジニアで、母が亡くなった後、東欧出身の女性と再婚し、離婚したとか。

 一方、ウクライナは、ロシア革命以後、様々な悲劇に襲われてきました。ウクライナソビエト戦争、ソ連への統合、ロシア化、飢饉、粛清、ジェノサイド、第二次世界大戦での損害、ナチスによる占領、チェルノブイリ原発事故などを経て、ようやくソ連から独立したのが一九九一年のことです。
『おっぱいとトラクター』は一九九七年頃の物語なので、上記の歴史的できごとに加え、移民としての生活についても語られます。ドイツの難民キャンプでの悲惨な体験(ナージャはまだ生まれていない)、ほかのウクライナ人は強制送還されシベリア送りになったのに運よくイギリスに移住できたこと、しかし親類や友人と離れ離れになったことなどは、一見陽気そうにみえる家族にとって大きな傷になっていることが分かります。
 勿論、家族の苦難はダメージだけでなく、絆を強める働きもします。戦中に家族に起きたできごとをナージャが知り、いがみ合っていた姉を許せるようになるのです。

 なお、ヴァレンチナは夫が党員だったため、共産主義体制の頃は寧ろ裕福な暮らしをしており、資本主義に耐えられずイギリスに逃げてきたという設定です。ウクライナは独立後、西側のものを節操なく取り入れましたが、進出してきたアメリカの企業にとってウクライナは安い労働力の源でしかありません。ウクライナの唯一の輸出産業は綺麗な女性を娼婦として売ることで、ヴァレンチナは欲望の餌食となったのです。
 さらに、ナージャ社会主義に心惹かれる左翼の社会学者であり、それらのことから、レヴィツカは必ずしも社会主義時代のウクライナを否定しているわけではなさそうです。

 ま、そうした難しいことを抜きにしても、女性によって書かれたユーモア小説として、かなりレベルの高い作品なので、ぜひ読んでみてください。

『おっぱいとトラクター』青木純子訳、集英社文庫、二〇一〇

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