読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『満たされぬ道』ベン・オクリ

The Famished Road(1991)Ben Okri

 ベン・オクリは、チヌア・アチェベ、ウォーレ・ショインカ、エイモス・チュツオーラらと同じくナイジェリア出身で、英語で詩や小説を書いています。文体も内容もチュツオーラほど破天荒ではなく、寧ろガブリエル・ガルシア=マルケスサルマン・ラシュディと比較されることが多いそうです。

 で、オクリ版『百年の孤独』といえなくもないのが、ブッカー賞を受賞した『満たされぬ道』(写真)です。
 尤も、日本においてブッカー賞の冠は、さほど大きな効力を発揮しません。続編である『Songs of Enchantment』が訳されなかったところをみると、恐らく、この本もそれほど売れなかったのではないでしょうか(ただし、『見えざる神々の島』は邦訳あり)。

 さて、あらすじを紹介する前に、まずは「アビク」について簡単に説明しておきます。
 アビクとは、同じ母親から何度も生まれて、すぐ死んでしまう邪悪な子どものことです。
 ヨルバ語ではアビクといいますが、アチェベの『崩れゆく絆』にはオバンジェ(イボ語)という名で登場します。また、チュツオーラの『ブッシュ・オブ・ゴースツ』でも「死ぬために生まれる赤ん坊(強盗幽鬼)」として描かれています。
 乳幼児の死亡率の高いアフリカでは、子どもが亡くなったとき、それを悪い霊の仕業にして耐えたのではないでしょうか。

 人の世界に生まれ落ちたアビクであるアザロは、精霊の世界に戻らず、現世に留まる道を選択します。
 そのため、彼には精霊や幽霊など異形のものの姿がみえます。また、それらは「元の世界へ帰れ」と、ちょっかいを出してきたり、無理矢理、体のなかに入ってきたりします。
 また、人間たちも精霊に負けず劣らず個性的です。突然ボクサーになる父親、金に汚いアパートの住人、怪しいバーを経営するマダム・コト、写真屋、政治家など、世界にはアザロの理解が及ばない大人たちが溢れています。
 そして、アザロを元の世界へ連れ戻そうとする精霊は、どんどん強力になってゆき……。

 日本でもよく読まれているチュツオーラと比較すると、生者と死者(霊)との境界が曖昧な点は共通しています。
 交通事故で死んだ息子(顔が潰れ、血を流している)が生者と一緒に食卓に着いていたら、普通はホラーになってしまいますが、この小説はリアリズムの文脈に超自然現象が紛れ込む、いわゆるマジックリアリズムなので一々驚いてはいけません。また、死者との交流が不自然でないのは、かつてのナイジェリアのゲットー(電気も通ってないし、自家用車も珍しい)を舞台にしているからでしょう。

 一方、「道」と名がついても、ロードナラティブではありません(ちなみにチュツオーラの作品の多くは冒険譚)。そもそも、この作品は、物語性に乏しく、大きな事件も起こらず、起承転結や序破急などとも縁が薄い。
 飽くまでアザロという少年の日常生活と、彼の目からみた奇妙な大人たちの姿や不思議な社会の仕組みが、数多くのエピソードを積み重ねる形で淡々と描かれているのです。

 尤も「道」イコール「人生」という捻りのない構図はみえますが、どうもそれが主題ではなさそう……。アザロのほかには子どもがほとんど登場しませんし、ビルドゥングスロマンという感じでもないからです。
 実際、アザロの役割は、ナイジェリア独立前夜の政治的混乱や、未だ呪術や霊に支配されている人々を冷静に捉えることにあると思われます。その点、精霊の子という設定は、客観的で、理想的な「目」といえるでしょう(年齢の割に、大人びすぎているが……)。

 それにしても、周囲の大人たちは、ひとり残らず奇妙奇天烈で、精霊や亡霊の影が薄くなるほど強烈です。
 例えば、アザロのアパートの家主は政治家でもあり、演説の際、やくざ者を従え、粉ミルクを市民に堂々と配ります。けれど、粉ミルクには毒が入っていて、さらにそれを対立する政党のせいにするというわけの分からなさ。当然、人々はそんなことに誤摩化されず、大喧嘩になります。
 また、アザロの父親は、唐突にボクサーになり、妻子が飢えていても知らん顔でモリモリ食って、ガンガン体を鍛え始めます。そして、死者の霊や伝説のボクサーらと、意味の分からない死闘を繰り広げるのです(その後、政治に興味を持ち、最後には解脱する)。

 人間の不可解さ、醜さ、弱さ、滑稽さが、たっぷりと描かれていますが、それは決して不快ではなく、寧ろ愛おしく感じます。
 かつての日本にも、無知で貧しく豪快で心優しい人たちがいて、彼らを巧みに描いたフィクションも存在しました(落語の人情噺とか、戦後、あるいは高度経済成長期における市井の人々を描いた喜劇とか)。国籍や人種は違えど、そういう人々には懐かしさを覚えてしまいます。いわば万国共通のツボといったところでしょうか。

 しかし、だからといって郷愁ばかりでこの作品を評価するわけではありません。
 実をいうと、『満たされぬ道』の最大の魅力は、相対するものが絶妙なバランスで両立している点にあります。
「懐かしいけど、新しい」「エキサイティングでも、冷めている」「幻想的なのに、現実的」「ふざけているようで、真面目」「邪悪にして、清らか」などなど。
 そして、それは、どっちつかずというより、極端になるのを敢えて抑えているように思えます。

 前述の粉ミルクの事件にしても、ドタバタ喜劇になりそうなところでスッと筆を引いていますし、強欲な家主、やり手婆のマダム・コト、さらには、眼から緑色の涙を流し、聞いたことのないくらい気味の悪い音楽をアコーディオンで奏でる老人という強烈なキャラクターにしても、味方なのか敵なのか、読者に容易には判断させません。
 そもそも、人間も精霊も、単純な善悪の基準を与えられておらず、老いも若きも、古きも新しきも、美しきも醜きも、すべてが混沌としたトウガラシスープの鍋のなかで、一緒くたに煮込まれているのです。

 勿論、その中心にいるのが、アビクという精霊と人間の中間の存在です。
 彼の目に写る世界の歪みを表すために、上記のような手法を選択したのも凄いですが、ブレずに最後まで貫き通した点にも大いに好感が持てます。
「俺は、このやり方で世界を表現してやる」という強い信念が感じられるのです。
 僕が小説を読む目的のひとつは、作者のこうした心意気に触れたいからなのかも知れません。

『満たされぬ道』〈上〉〈下〉金原瑞人訳、平凡社、一九九七

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