読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ハドック夫妻のパリ見物』ドナルド・オグデン・ステュワート

Mr. and Mrs. Haddock in Paris, France(1926)Donald Ogden Stewart

 ドナルド・オグデン・スチュワートは戦前、映画の脚本家や俳優として活躍しましたが、戦後の赤狩りでハリウッドを追われます。
 尤も、映画界に入る前はユーモア小説を書いていて、邦訳もいくつかあります(『世界滑稽名作集』や『ユーモア・スケッチ傑作展』所収)。しかし、単著は一冊のみです。

 実をいうと、『ハドック夫妻のパリ見物』(写真)は「ハドック夫妻」ものの二作目です。
 第一作である『Mr. and Mrs. Haddock Abroad』(1924)には全訳がない代わりに『アメリカほら話』(※)や『すべてはイブからはじまった』に一部が収録されています。
 浅倉久志によると、原典の分からないパロディが多く、余り面白くないとのことです。そのため、敢えて続編を訳したのだとか。そういわず両方とも翻訳してくれればよかったのですが、こればっかりは今さら嘆いても仕方ありません。

 さて、「年代順一覧」をみると、一九二六年は、P・G・ウッドハウスの『ゴルきちの心情』、ソーン・スミスの『トッパー氏の冒険』、ピエール・アンリ・カミの『名探偵オルメス』と優れたユーモア小説が固まっています。
 浅倉も『ユーモア・スケッチ傑作展』で「ユーモア・スケッチが質量ともに頂点をきわめたのは、第一次世界大戦アメリカが未曾有の好景気に沸き、その一方で禁酒法婦人参政権という大きな社会変動を経験した、狂乱の一九二〇年代でした。ギャング・エイジともジャズ・エイジとも呼ばれるこの時代は、また、アメリカン・ユーモアの黄金期でもあったわけです」と書いているとおり、稀代のユーモリストたちが、しのぎを削っていたのでしょう。羨ましい時代です。

 また、一九二〇年代のパリは狂乱の時代と呼ばれ、様々な芸術家が集ったことで知られています。
 スチュワートもその頃、パリに渡りましたが、その経験を前衛的な文学として著すのではなく、無知な観光客の目線で、社会や文化、愛すべき庶民をユーモラスに描く「ハドック夫妻」シリーズに結実させたのが素晴らしい。

『ハドック夫妻のパリ見物』の話に入る前に、部分的に邦訳のある『Mr. and Mrs. Haddock Abroad』の内容を記載します。
 一九二〇年代半ば、オハイオ州に住む材木商のウィリアム・ハドック(五十一歳)と、妻のハリエット(四十九歳)は、憧れの欧州旅行に出かけることになります。夫妻にはフランクという既婚者の息子がいますが、彼は同行を嫌がったため、フランス語が話せる末娘のミルドレッド(十歳)を連れてゆくことにしました。
「ハドック夫妻の海外旅行」(『すべてはイブからはじまった』所収)では、出発前の自宅、ニューヨークへ向かう列車、ニューヨークのホテル、ヨーロッパに向かう船での様子が描かれています。
「ハドック夫妻の洋行」(『アメリカほら話』所収)では、船内での一幕がみられます。

 そして、『ハドック夫妻のパリ見物』は、パリへ向けて走る列車のなかから物語が始まります。
 三人は、ホテル、レストラン、バー、観光地などを訪れ、現地の人や観光客と交流し、それぞれのパリを楽しみます。

 取り立てて筋がなく、騒動を巻き起こすほどでもなく、ちょっとだけ可笑しい場面が延々続く点は、ジャック・タチの映画に似ているかも知れません。ひとりでパリ見物に出掛けて意気揚々と帰宅するミルドレッドは、レーモン・クノーの『地下鉄のザジ』のザジみたいです。挿絵を書いているハーブ・ロスもアメリカのイラストレーターですが、エルジェっぽい絵柄です(ハドックといえば、「タンタン」シリーズに登場するハドック船長を思い出す人が多いかも)。
 尤も、「ハドック夫妻」の方がタチにもザジにもタンタンにも先行しているわけですが、不思議とフランスっぽい要素が揃ってしまったのですね。

 ただし、タチの映画が科白がほとんどなく、動きによる笑いなのに対して、こちらは小説なので、饒舌がキモになります。
 特に『ハドック夫妻のパリ見物』の方は、フランスに着いてからの物語ですから、困難な意思疎通や、言語や文化の違いによる笑いが主となります。

 噛み合わない会話は、ハロルド・ピンターの戯曲にも通じるものがあります。けれども、こうした面白さは感想として伝えるのがとても難しい。
 とにかく読んでもらうしかないので、一部を抜き出してみます。

(ホテルの部屋にボタンが三つついている)
 ハドック氏は娘のミルドレッドにたずねた。「このなかのどれが“フロ”という意味なんだい?」
 ミルドレッドはかぶりを振ってから、こう提案した。「三つとも押しちゃって、ようすを見たら?」
(中略)
「いいこと考えた」と、ミルドレッド。「どのボタンの上にも、お砂糖をちょっと塗っとくのよ。それで、最初にハエがとまったボタンを押したら、おフロにはいれるかもしれないわ」
「よかろう」ハドック氏がいった。「ついでに当てっこで、ちょっとした賭けをやらないか?」
(中略)
 ハドック氏はポケットからひとかたまりの砂糖を出して、それを三つのボタンの上に塗りつけにかかった。
「ところで、ハエはどこにいる?」
「どこにもいないわ」小さなミルドレッドがいった。「でも、ボタンを押して、とりよせたら?」
「そうだな。しかし、それはどのボタンだろう?」

(レストランにて)
 ハドック夫人がいう。「できたら、いつもうちで食べているようなパンに、とりかえてもらえないかしら?」
 ハドック氏がミルドレッドにきく。「“いつもうちで食べているようなパン”のことを、フランス語でどういうんだい?」
 つぎに同じ質問をうけた給仕も、ただ首をかしげるばかり。急を聞いて給仕頭が馳せ参じたが、結果はやはり同じこと。そこでパリのハドック夫人は、アメリカで“フランスパン”と呼ばれているものに、心ならずもバターを塗る仕儀とはなった。

(名探偵ルコックに妻の尾行を依頼をするときの会話)
「まあまあ、お隠しあるな。あなたは疑っておられる。よろしい、では証拠をお見せします。すみませんが、目をつむって二十かぞえてくれませんか」
 ハドック氏は目をつむり、二十かぞえた。もう一度目をあけると、そこには探偵の姿はなく、その代りに長い灰色のあごひげを生やした老人がすわっていた。
「だれだか当ててみなされ」老人は、震えをおびたかん高い声でいった。
「フランスの名探偵ルコック」ハドック氏は言いあてた。
「ちえっ、困るなあ!」名探偵はいった。「あなた、のぞいたんでしょ。もういっぺん目をつむって」
 ハドック氏はいわれるままにした。
 つぎに目をひらくと、腰の曲がった老婆がそこにいた。たぶんリンゴ売りだろう。
「さあ、わたしはだれじゃ?」老婆がいう。
「まいった。わからない」と、ハドック氏。
ルコックですよ」相手はお面をはずし、快心の笑みをうかべていった。「名探偵のね」
「おどろいたな! きみだとは全然気がつかなかったよ」


『ハドック夫妻のパリ見物』にはユーモアだけでなく、文明批評の側面もあります。
 ハドック夫妻を見舞うトラブルによって、パリの交通事情は悪いとか、観光客に不親切だとか、のんびりしていて何を頼んでも時間がかかるとか、フランスの男は手が早いといった印象を与えます。
 しかし同時に、パリはアメリカ人で一杯だとか、アメリカは小国の苦難をすぐ忘れるというフランス人の不満も書かれるので公平な印象を受けます。

 アメリカ人とフランス人は互いに嫌い合っていながら、実は憧れの気持ちも持っています。アメリカ人は、パリへいけば、自分を変えてくれる何かに出合えると期待しますが、それが果たされないため、余計に不満に感じるというわけです。
 これはアメリカとフランスに限ったことではなく、様々な場面に当て嵌まる真実なのかも知れません。
 例えば、好きな異性に嫉妬したり意地悪をしたり、その人といると自分が変われる気がするものの、そんなに調子よくゆくわけもなく不満を覚えるといった経験は、誰しも持っているのではないでしょうか。

 小説も、この感想文も、最後に思わず真面目になってしまいましたが、本来はそういうことを考えず、ただただ笑って構わない作品です。
 安価で入手でき、ボリュームも少ないので、手軽に楽しむことができます。

※:単行本にのみ収録されている。文庫版には載っていないので注意。

『ハドック夫妻のパリ見物』浅倉久志訳、ハヤカワ文庫、一九七八

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