読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『待ち暮らし』ハ・ジン

Waiting(1999)Ha Jin

 以前も述べたように、中国と日本は相互主義によって、固有名詞はそれぞれの国語に従って発音します。
 中国出身のハ・ジンは、中国語では「金哈」と書き「チン・ハー」と読むので、日本語にすると「きん・ごう」とでもなるのでしょうか。

 しかし、彼は、天安門事件をきっかけに米国の国籍を取得し、英語で小説を書き、名・姓の順に表記するHa Jinをペンネームにしているため、中国では「哈金」、日本では「ハ・ジン」と書きます(このブログのルールどおり、二回目以降は姓の「ジン」のみの表記にする)。

 さて、ジンの小説は長編も短編も読みやすく(英語で書くため、下手に文章に凝らないからかも)、村上春樹と比較されることもあるくらいなので人気が出てもおかしくない作家だと思います。特に『自由生活』や短編集『すばらしい墜落』はアメリカで暮らす中国人の様々な姿が描かれ、興味深く読めました。

 しかし、書籍の多くは現在品切れで、十年以上新しい単行本が発行されていません。
 ひょっとすると、米国における中国人移民の生活について知りたいという日本人はそんなにいないのかも知れない。文学としていかに優れていても、テーマや内容次第では余り売れないということでしょう。

 一方、『待ち暮らし』(写真)は、文化大革命の時期からジンがアメリカに留学する一九八〇年代半ばまでの中国が舞台になります。
 ジンは、一九八〇年代の終わりから英語で執筆するようになったそうなので、わずか十年で全米図書賞やペン/フォークナー賞を受賞したことになります。

 軍医の孔林は、毎年十二日だけの休暇を得て、妻と娘のいる自宅へ帰ります。妻の劉淑玉は容姿が醜く、いまだに纏足をしている時代遅れの女です。彼には呉曼娜という愛人がいるため、淑玉に毎年、離婚を迫ります。夫に反抗しない淑玉は離婚を承知するものの、人民法院へゆくと泣きながら意見を覆します。
 二十年前、林は軍医として実家から離れた土地で暮らさなければならず、病気の母の面倒をみてもらうために淑玉と結婚しました。爾来、淑玉はひとりで林の両親の世話をし、最期まで看取りました。そんな貞淑な妻を捨てることに、周囲は白い目を向け、裁判官も離婚を認めてくれません。
 そうやって十七年が経過しますが、別居が十八年を超えると、配偶者の意思にかかわらず離婚を認めるという軍の法規があり、それを利用すれば翌年には妻と離婚できるのです。

 上記はあらすじというより設定で、「序」ですべて説明されてしまいます。
 ここから、物語は二十年ほど遡ります。文革時代、医師となって木基の陸軍病院に赴任した林と、看護師の曼娜が惹かれ合う過程が描かれます。
 ただし、軍には厳しい規定があり、既婚者が異性と親しくしていることが分かれば僻地へ飛ばされるため、セックスどころか、病院の外を並んで歩くこともできません。院内は皆の目がありますし、軍医といえども三人部屋なのでプライバシーはほとんどないのです。
 林は、真面目で理性的なので、いい歳をして夢精しても、曼娜には手を出そうとしません。

 曼娜は、孤児として育ったこともあって、早く家庭を持ちたいと考えます。処女のままオールドミスになった上に、林の愛人という噂が広まっているので、ほかの男とつき合えません。
 けれども、林と淑玉の離婚交渉は一年に十日しかないので、全く進展がないまま時間だけが過ぎてゆきます。潑剌としていた曼娜も老けてみえるようになってきます。

 淑玉は妻としての落ち度が全くなく、それを「愛していないから」という理由だけで離婚するわけにはゆきません。愛人がいるということも前述したとおり公にはできないため、林は裁判で毎回、叱られて終わってしまいます。
 さらに、淑玉の弟の本生による妨害、林の兄の任による説得、そして妻を捨てることを許さない世論といった圧力が林に伸し掛かります。

 にっちもさっちもゆかない状況で、ミステリーやサスペンスであれば、間違いなく殺人が起こるでしょう(その場合、妻を殺すか、愛人を殺すかの問題がある)。その選択は正しくありませんが、エンターテインメントの主人公としては積極的に行動を起こすことが大切なので、やむを得ません。
 しかし、『待ち暮らし』では、タイトルからも分かるとおり、林も、曼娜も、そのほかの人もひたすら何かが変わるのを待つのです。

 主流文学にはこの手の作品が多く、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』、ディーノ・ブッツァーティの『タタール人の砂漠』、J・M・クッツェーの『夷狄を待ちながら』、ソール・ベローの『宙ぶらりんの男』、ガブリエル・ガルシア=マルケスの「大佐に手紙は来ない」などと同じジャンルに分類されるかも知れません。
 待つ間の焦り、苛立ち、絶望といった心の動きを描くのが主眼です。

『待ち暮らし』の場合は、林と曼娜だけでなく、淑玉や本生も離婚を待っているようにみえます。「期待して待つ」という意味ではなく、いずれ離婚せざるを得なくなるのを分かっていて、なるべくそれを考えないよう日常生活を送っているといった感じ。
 誰にとっても中途半端で、動きの取れない状況が十五年近く続くなんて、僕だったらとても耐えられません。

 林は、妻にも愛人にも幸せになって欲しいと考えるタイプ故、思い切った行動に出られませんが、それは誠実というより、自分が傷つくのが嫌な偽善者、保身に走る小心者ともみえます。
 特に、曼娜が強姦されたのに、ほとんど何もできないのは情けない限りです。

 確かに、文革の時期の中国という特殊な事情はあります。ジンはなるべく政治的な記載を避けているようですが、それでも理不尽かつ自由のない暮らしが林たちを何重にも縛りつけている様子がみえてきます(※)。
 あるいは庶民の暮らしにくさを描くことで、社会主義体制を遠回しに批判しているとも読めます。「訳者あとがき」では「どの時代のどの国の人間にも共通な普遍的テーマを追究している」とありますが、その解釈は少々無理があります。
 この小説で描かれているのは、社会主義国ならではの苦悩や葛藤ではないでしょうか。

 とはいえ、「妻帯者には義務や責任があり、やりたい放題は許されない。そうでなければ、家庭が崩壊し、社会が混乱に陥る」という考え方は極端ではあるものの、それなりに納得できます。
 例えば、結婚、不倫、離婚をコンビニへゆくくらい簡単に行なう人たちと比べ、どちらが人間らしいのかと考えると、複雑な気持ちになるのです。

 さて、いよいよ離婚が成立し、林と曼娜は新生活を始めますが、それが薔薇色の日々とならないのもお約束といってよいでしょう。
 一緒に暮らし始めた途端、相手の嫌な点や相容れない部分が鼻につき、「どうして、こんな人との生活を十何年も夢みたのだろう」という疑問や後悔に支配されます。満たされなかった時間が長ければ長いほど期待が膨れ上がり、現実との落差に苦しむわけです。

 物語の最後に林は、愛情と安らぎを天秤にかけたら、後者の方を欲していることにようやく気づきます。同時に、長い年月をかけて、自分の人生も、他人の人生も壊してしまったことを悟るのです。

 皮肉なラストではあるものの、ふたつの家庭が奇妙に融合した暮らしは、ある意味、男の理想のようで、不思議と悲壮感はありません。
 満足した一生を送れる者などそうはいませんし、未来のことは誰にも分からないのですから、どのような状況に至ろうとも後悔せずに毎日を過ごしてゆきたいものです。

※:本筋とは関係ない部分で、林は文学好きのインテリにもかかわらず、ウォルト・ホイットマンの『草の葉』の存在すら知らないというエピソードが出てくる。性的かつ自己讃美が甚だしい点が問題ありとされたのだろうかと分析している。

『待ち暮らし』土屋京子訳、早川書房、ニ〇〇〇

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