読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ペドロ・パラモ』フアン・ルルフォ

Pedro Páramo(1955)Juan Rulfo

 前回のイサーク・バーベリも寡作でしたが、メキシコの作家フアン・ルルフォは、もっとすごくて、生涯二冊分の小説しか書きませんでした。『燃える平原』(1953)という短編集、そして、今回取り上げる『ペドロ・パラモ』(写真)です。
 ルルフォは一九八六年に亡くなりましたから、実に三十一年も沈黙を守ったことになります(J・D・サリンジャーは四十五年ですけど)。尤も、その間、何も書かなかったわけではなく、「黄金の軍鶏」という映画のプロットを作ったりしています。ただ、自作に大変厳しい作家で、小説は書いても破り捨てていたそうです。「何を書いても『ペドロ・パラモ』になってしまう」という気持ちは分からなくもありませんが、読者としたら、やはり寂しいですね。
 いずれにしても「すげー小説を書いた」、さらに「その後、何も発表しなかった」ことで伝説と化した作家といえるでしょう。

 ルルフォがすごいのは、朴訥な農民の一人称を用いて、しかも、ごく短い枚数で、心の奥深くに踏み込んでくるところです。普通、粗野で、無学の人物は主人公たりえても、語り手としては余りふさわしくありません。ところが、ルルフォは読者との感覚のズレを実に上手く使い、青臭いインテリの苦悩などとは比べようもないほど強い印象を与えることに成功しています(勿論、内戦に明け暮れた二十世紀前半のメキシコという舞台も大きく作用しているのは間違いないでしょうが)。
 こうした文体、語り口は『燃える平原』に収められた短編で既に完成されていますが、それらが習作と思えるくらい『ペドロ・パラモ』は弾けています。よりアバンギャルドかつ複雑な構成になっているのです。

 フアン・プレシアドは、死に際の母から、父ペドロ・パラモに会いにゆくようにいわれ、コマラという町へ向かいます。ところが、町に足を踏み入れる前に、ペドロは既に死んでいることを聞かされます。また、コマラという町には住民がひとりもおらず、フアンが出会う人々は、どうやら死者であるらしい。それどころか、フアン自身も、いつの間にか埋葬されていて、土の下で死者と会話していることが分かってきます。
 一方、ペドロを主とした様々な人物の過去が、細切れの形で挿入されます(この小説には章がなく、数多くの断片から成り立っている)。最初のうちは何が何だかさっぱり分からないのですが、多くのかけらを丁寧に拾ってゆくうちに、それぞれの人生が複雑に絡み合い、全体がみえてくるという仕組み。
 そう書くと、カート・ヴォネガットがよくやる錯時法を思い浮かべるかも知れませんが、印象としては『百年の孤独』や『精霊たちの家』といった壮大な物語を、最低限の会話や描写で紡いでいるような感じでしょうか。何しろ日本語にして、たった二百頁ですから、一瞬一瞬は非常に濃密で、ぼけっと字面を追う余裕は全くありません。親切な説明もない上、死者と生者が当たり前のように接触するせいもあって、必死に頭を働かせて細部を補ってやらないと、誰がどの段階で生きていたのか、一体いつの話なのか、混乱してしまうのです(レンテリア神父とミゲルの関係は、何度読んでもよく分からなかったけど)。

 尤も、そうした点は、余り重要ではないと思います。前に取り上げたチュツオーラと同じように、生と死を分ける意味などないことは、作品全体が繰り返し主張しているからです。
 では、この物語は、果たして何を主張しようとしているのか。
 色々な解釈があるでしょうが、僕は、敢えて書きたい。
 これは、悪行の限りを尽くしたペドロ・パラモと、彼が唯一愛した気の触れた女性、スサナ・サン・フアンの永遠の恋愛物語であると。
 死によって分たれることもなければ、また、物語が円環構造を有していることから、小説としての「終わり」もありません。これほど、完璧なラブストーリーが、ほかにあり得るでしょうか。

 ラストシーンで、「あっちへ行くさ。いま行くよ」といって崩れ落ちたペドロは、とても幸せそうにみえました。

『ペドロ・パラモ』杉山晃増田義郎訳、岩波文庫、一九九二

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