Sławomir Mrożek
日本で『象』『所長』『鰐の涙』という三冊の短編集(漫画も収録されている)が発行されているスワヴォーミル・ムロージェック。しかし、世界的には作家や漫画家としてより、劇作家として知られています。
実際、日本オリジナルの戯曲集『タンゴ』は、上記三冊より二十年以上も前に翻訳刊行されましたし、「タンゴ」は二十一世紀になっても上演され続けています。
『タンゴ』の版元であるテアトロは、現在、カモミール社に社名を変更したようですが、雑誌「テアトロ」は今も発行されています。
そして、その「テアトロ」にはムロージェックの戯曲が掲載されたことがあります。すべては把握していないのですが、少なくとも以下の作品が確認できます(※)。
「魅惑の夜」(Czarowna noc) 274号(1966)
「亡命者」(Emigranci) 437号(1979)
「セレナーデ」「哲学狐」「狐狩り」「志願狐」 456号(1981)(写真)
折角ですから、そのうち僕が持っている456号の四編の感想も併せて書いてしまいます(どれも傑作なので単行本にして欲しい)。
緑字が『タンゴ』収録、赤字が「テアトロ」456号に掲載されたものです。
「タンゴ」Tango(1964)
ポーランドの知識階級の家族。アルトゥル青年と従姉妹のアラ、アルトゥルの父母、祖母とその弟エヴゲーニュシュという三世代の断絶を描いた三幕の戯曲で、ムロージェックの戯曲のなかでは最も有名です。
アルトゥルの父母の世代は旧弊を打破し、自由を勝ち取りました。しかし、「それによって秩序や伝統までもが破壊された。反抗したくとも、その余地すら残されていない」とアルトゥルは批難します。さらに彼は、次の世代に負けて堕落した祖母に罰を与え、エヴゲーニュシュを手下のように扱います。
秩序を取り戻すには伝統的な結婚しかないと、彼はアラに迫ります。何とか承諾してもらえ、結婚式を迎えるのですが……。
自由を求め、既成のものを打ち破るのが若者の専売特許ですが、ここでは構図が逆転しているのが面白い。
といっても、父の世代が活気に満ちているというわけではなく、何より自由を尊重せねばならないという道理に縛られる余り、どう行動してよいか分からなくなっています。それ故、実験的な演劇に没頭するしかないという有様。
何しろ、小作人のエーデックと妻が浮気していると知り、拳銃を持って部屋に押し入るものの、結局、皆でカードゲームをしてしまうのですから、情けないにもほどがあります。
一方、アルトゥルも、何をすべきか明確な答えを得られません。
手当たり次第、大人たちに毒を吐き、怒りのままに暴走しますが、何をやっても目指すゴールはみえてこないのです。そして、最後には毛嫌いしていた無知なエーデックに殺されてしまいます。
それは即ち、ポーランドの伝統はコミュニズムやファシズムになす術もなく敗れ、なおかつ未来に希望を持てないことを表しているのでしょうか。
勿論、絶望的な状況から抜け出せずにもがき苦しむ現代の若者たちに置き換えて読むことも可能です。
空回りするアルトゥルの孤独な叫びは、身勝手で甘いけれど、不思議と心を打ちます。
「カロル」Karol(1961)
孫が猟銃を抱えた祖父を連れて眼科医を訪れ、「祖父は近眼なので眼鏡を作って欲しい」といいます。そして、目がみえるようになったらカロル(英語にするとチャールズとかカールになる)という男を撃ち殺すつもりだと告げます。
「カロル」「ストリップ」「大海原で」は、同年に書かれた一幕ものの三部作です。
ムロージェックの一幕ものは彼の短編小説と似て、不条理なシチュエーションコメディといった感じのものが多いようです。
読者(観客)の興味は、カロルとは何者で、祖父はなぜ彼を殺そうとしているかに絞られるでしょう。
しかし、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』と同様、それらは最後まで明らかになりません。
「ストリップ」Strip-tease(1961)
よく似た中年の男ふたりが、何もない部屋に飛び込んできます。ドアは半開きなので、出ようと思えば出られます。
ひとりは「部屋を出ることができると考えているうちは自由だが、部屋を出るという選択をした時点で自由が失われる」という理屈で行動を起こすことができません。もうひとりは、自由を得るために行動しようとします。
しかし、口論するうちに扉が閉まってしまい、次にドアが開くと、そこから巨大な手が現れます。
前者は内的自由を、後者は外的自由を求めますが、いずれも叶えられません。
そこでふたりが取った行動は、わけも分からずひたすら「手」に向かって謝罪することなのです。実にナンセンスで不気味なシチュエーションです。
ぜひ、実際の舞台をみてみたいものです。
「大海原で」Na pełnym morzu(1961)
大海原の筏の上に、大・中・小の三人の男たちがいます。飢えに苦しむ彼らは、誰かひとりを犠牲にし、残るふたりでその肉を食べることにします。
大と中は、結託して小を食おうと、あの手この手で攻め立てます。イカサマ、投票、泣き落とし、嘘、屁理屈などなど。そのやり取りが馬鹿馬鹿しくて必死で笑えます。
大・中・小は力関係を表していて、会社なら社長・部長・平社員、学校なら三年・二年・一年といった具合になるでしょう。
これが日常であれば、上からの命令は絶対ですが、極限状態においては、当然ながら小は説得に応じません。しかし、この不条理な戯曲において、彼は覚悟を決めるのです。
その決心を引き出したものは、強者に強制され犠牲となるのではなく、自らの意志で身を捧げることが自由と解放を齎すという考えでした。
このようにムロージェックの戯曲は、自由をテーマにしたものが多いのですが、なかでもこれはユーモアと理念のバランスがよく、綺麗にまとまっています。
以下の四編は、狐が主人公の連作戯曲です。
「セレナーデ」Serenada(1977)
ある夜、鶏小屋の前でチェロを弾く狐。その音に眠りを妨げられた雄鶏と三羽の妻が顔を出します。狐は、一羽の雌鶏の誘惑に成功したと思いきや、ほかの鶏に邪魔され、雌鶏を得ることができなくなります。
しかし、彼女がくれたリボンを雄鶏にちらつかせることで、雄鶏に疑惑を呼び起こします。
美しい愛人を抱える中年男が、魅惑的な青年に怯え、必死に防衛しようとするものの、結局は身を滅ぼすってことでしょう。
台の上に設置された鶏小屋と狐のいる場所とは急な階段で隔てられており、接触できません。狐が雄鶏を食べたことは、舞台が暗転した後、顔や手が血塗れになっていることで表現されます。想像するだけで恐ろしい……。
「哲学狐」Lis filozof(1977)
ベンチに座る司祭の隣に狐が腰掛け、長い独白を始めます。
狐は進歩の側に立ち、常に古い慣習と戦ってきました。しかし、伝統のシンボルと思えた司祭は、さらに進んでいました。というのも、実は……。
ほぼすべてが狐のモノローグです。なぜなら、衝撃的なオチのために司祭は喋ることができないから。
……なんですが、翻訳には序盤に大きなネタバレがあります。誤植なのか、それともポーランド語の人称代名詞(panとpani)の問題なのか分かりませんが、もうちょっと配慮が欲しかった……。折角の結末が台なしです。
勿論、上演する際は「司祭は観客に分からないよう変装をする」「役者名を伏せる」といった工夫が必要でしょう。
「狐狩り」Polowanie na lisa(1977)
「哲学狐」と同じセットです。四幕ですが、場面転換はありません。
君主制が崩壊し、王の特権だった狩猟が民衆に解禁されました。ところが、誰も彼もが狩りをしたことによって、獲物がいなくなってしまいます。最後の一匹となった狐は、雄鶏とともに林を逃げ回ります。
自由や平等が極端に解釈され、市民はやりたくもない狩りをしなければなりません(中風患者まで駆り出される)。迷惑を被るのは狐ですが、彼も野生動物の代わりに鶏を狩るよう進言したりするので、結局は自分のことしか考えていないわけです。さらに、狩りを嫌がっていた中風患者も偶然、狐を仕留めたことで狩りの楽しみを知ります。
要するに、偉そうなことをいっても、誰もが自分勝手に生きているってことですね。
「志願狐」Lis aspirant(1978)
こちらは完全な狐のひとり芝居です。
夜、手回しオルガンにつながれた猿(人形)がベンチに座っています。そこに狐がやってきて、話し掛けます。
狐にとって猿は、より人間に近い高尚な存在です。その猿に、どうすれば進化できるのか教えを請おうとします。
人間は地上に存在するもののなかで最も高い位置にあると狐は考えます。狐が夢中で人間を褒め称えていると、次第に夜が明けてきます(舞台も段々明るくなる)。
そして、最後に観客が目にするのは「首を吊った人間の遺体」なのです!
上述のように短編集と戯曲集が翻訳されているムロージェック。となると、残るは長編小説です。代表作の『Ucieczka na południe』が訳されると嬉しいなあ。
※:ムロージェックの戯曲は、ほかにも『現代世界演劇』8に「予言者」(Testarium)が収録されている。
『タンゴ ―ムロジェック戯曲集』Teatro International Series No.1、米川和夫、工藤幸雄訳、テアトロ、一九六八
「テアトロ」456号、塚田充訳、テアトロ、一九八一
→『象』『所長』『鰐の涙』スワヴォーミル・ムロージェック
戯曲
→『ユビュ王』アルフレッド・ジャリ
→『名探偵オルメス』ピエール・アンリ・カミ
→『大理石』ヨシフ・ブロツキー
→『蜜の味』シーラ・ディレーニー
→『授業/犀』ウージェーヌ・イヨネスコ
→『物理学者たち』フリードリヒ・デュレンマット
→『屠殺屋入門』ボリス・ヴィアン
→『ヴィオルヌの犯罪』マルグリット・デュラス
→『審判』バリー・コリンズ
→『あっぱれクライトン』J・M・バリー
→『ピッチサイドの男』トーマス・ブルスィヒ