Judgement(1974)Barry Collins
いきなりですが、物語のさわりを記します。
第二次世界大戦中、ドイツ軍は、南ポーランドにある修道院の地下室に、ロシア軍の捕虜七人を素っ裸で閉じ込め、水も食料も与えず置き去りにします。
二か月後、ふたりの兵士が生きて発見されます。彼らは仲間を殺して食べ、生き延びていたのです。
しかし、ひとりは精神に異常をきたしており、残るひとりが裁判にかけられます。
正気を保って生き残ったアンドレイ・ヴァホフ大尉が裁判において申し開きをするのですが、その独白のみですべてを表現したのが、バリー・コリンズの戯曲『審判』(写真)(※1)です。
どうです。この情報だけで、読んでみたくなりませんか。
実は『審判』にはモデルとなった事件があります(※2)。それはジョージ・スタイナーの『悲劇の死』で扱われています。
現実の事件が『審判』と大きく異なるのは、生存者がふたりとも発狂状態で、浅ましい姿をほかの兵士にみせられないという理由で射殺された点です。
この相違がなぜ大きいかというと、発狂せず生き残った者がいた場合、彼を裁かなくてはならないためです。つまり、裁判において、彼の体験談を咀嚼して、一旦飲み込む必要があるのです。
さて、地下室で一体何が起こったのかは誰にも分からないわけで、『審判』ではその部分を想像力で埋めます。
自力での脱出が不可能と悟った七人は、尊厳を守るため全員一緒に自決するという選択を取りませんでした。ひとりでもふたりでも生き残る可能性に賭け、髪の毛で作った籤を引き、当たった者が食料になる方法を選んだのです。
その際、罪の意識を感じずに済むよう、犠牲者を全員で窒息させることにしました。
と、文章にするとあっさりしていますが、今までともに戦ってきた仲間を殺し、それを食すなんて簡単にできることではありません。戦争という極限状態においてさえ激しく葛藤し、運命を呪い、浅ましいことを考えた自分を責めるでしょう。
さらに、食べるのは「死んでしまった仲間」ではなく、「屠った仲間」なのですから、鬼にでもならなければとても実行することはできません。
それが分かっているからこそ、裁く者たちは、生き残ったヴァホフに好奇と批難の目を向けます。地獄のような状況で六十日間も正気を保っていられるのは最早人間ではないといわんばかりです。
一方、ヴァホフは自分を犠牲者であり、貴重な体験をした実験体であり、英雄だと主張します。また、無事に生還できたのは、邪悪な心の持ち主だからではなく、心を鈍らせ殻に閉じ籠もったからだと分析するのです。
実際は、想像を絶する体験の連続に説明をつけることは困難なのですが、そうとでも思い込まないと狂気に侵されてしまうとヴァホフは考えたのでしょう(そもそも彼が狂っていないといえるのかという疑問はある)。
彼の釈明を認めるか否かは、実をいうと作中の人物の役割ではありません。コリンズが、ヴァホフの長い長い独白という形式を選んだのは、文字どおり「審判」を読者や観客に委ねるためです。
我々は、彼の言葉のみを頼りに、陰惨な場面を思い浮かべ、登場人物に感情移入し、ヴァホフの選択や行為、殺人や食人は緊急避難か否かに審判を下すことになります。
読者や観客に、ここまで過酷な作業を強いるフィクションは珍しいかも知れません。
しかし、それこそが『審判』という戯曲の狙いであり、もっというと、心と頭をフルに回転させる気がないのであれば、この作品を鑑賞する意味はありません。
とはいうものの、そればかりでは途中で挫折する人、そもそも最初からこの作品を敬遠する人も出てきてしまいます。
恐らくそう考えたコリンズが取った作戦が、カニバリズムに関する描写を具体的かつ生々しくすることでした。要するに、食人をエンターテインメント化したのです。
人体を解体し、人肉や血を食す描写だけでなく、犠牲者の死に様にも工夫を凝らしています。死を受け入れる者、抵抗する者、自殺を選ぶ者、自ら進んで肉体を提供する者、心と体を病んで最後には殺される者など多様な状況を作り出し、読者の想像力を刺激します。
また、狂気の状態で発見されたルービンは当初、場を仕切っていた人物です。五人目の犠牲者も彼が単独で絞殺しました。そのルービンの精神が崩壊してゆく様子もしっかりと追いかけています。
好きな部位は取り合いになるとか、脳や生殖器は後回しにされるとか、血は温かいのと冷たいのではどちらが美味いかといった告白は少々ふざけすぎという気がしますが、もしかしたらそれもコリンズの計算かも知れません。
この戯曲に欠けているユーモアを隠し味として加えているのだとしたら、心憎いばかりの組み立てではありませんか。
『審判』は、ピーター・オトゥールやコリン・ブレイクリーの主演で上演されました。
日本では、江守徹や加藤健一が演じています。また、森田芳光監督の『39 刑法第三十九条』において、堤真一が演じるひとり芝居が、恐らく『審判』だと思われます(映画のなかでは『証言台』というタイトルになっている。ちなみに、その映画には江守も出演している)。
ペーター・ヴァイスの『追究』と異なり、モノローグのみから成り立っているため、いくら名優といえども苦悩を訴えるだけでは観客の興味を引きつけておくのは難しそうです。
そこにショッキングな人食いの描写や、バラエティに富んだ最後の選択、死をも笑い飛ばすブラックユーモアが加われば、重くなった観客の瞼を押し上げることができるというものです。
とはいえ、芝居はいつでも鑑賞できるわけではありませんので、実話の持つ重さと、フィクションが作り出す刺激の絶妙なコンビネーションを、まずは文字でお楽しみください。
※1:エピグラフにフランツ・カフカの『訴訟』Der Processの一節が置かれている。『訴訟』は初版のタイトルが『Der Prozess』だったため、英語では『The Trial』と訳されていたからだろう。ちなみに、日本語では『審判』というタイトルが一般的だった。
※2:食人事件としては「メデューズ号遭難事故」「ウルグアイ空軍機571便遭難事故」「ひかりごけ事件」がよく知られている。
『審判』青井陽治訳、劇書房、一九七九
戦争文学
→『黄色い鼠』井上ひさし
→『騎兵隊』イサーク・バーベリ
→『虹』ワンダ・ワシレフスカヤ
→『イーダの長い夜』エルサ・モランテ
→『第七の十字架』アンナ・ゼーガース
→『ピンチャー・マーティン』ウィリアム・ゴールディング
→『三等水兵マルチン』タフレール
→『ムーンタイガー』ペネロピ・ライヴリー
→『より大きな希望』イルゼ・アイヒンガー
→『汝、人の子よ』アウグスト・ロア=バストス
→『虚構の楽園』ズオン・トゥー・フォン
→『アリスのような町』ネヴィル・シュート
→『屠殺屋入門』ボリス・ヴィアン
→『裸者と死者』ノーマン・メイラー
戯曲
→『ユビュ王』アルフレッド・ジャリ
→『名探偵オルメス』ピエール・アンリ・カミ
→『大理石』ヨシフ・ブロツキー
→『蜜の味』シーラ・ディレーニー
→『タンゴ』スワヴォーミル・ムロージェック
→『授業/犀』ウージェーヌ・イヨネスコ
→『物理学者たち』フリードリヒ・デュレンマット
→『屠殺屋入門』ボリス・ヴィアン
→『ヴィオルヌの犯罪』マルグリット・デュラス
→『あっぱれクライトン』J・M・バリー
→『ピッチサイドの男』トーマス・ブルスィヒ
→『作者を探す六人の登場人物』ルイジ・ピランデルロ
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