読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『スクリーン』バリー・N・マルツバーグ

Screen(1968)Barry N. Malzberg

 以前、『決戦! プローズ・ボウル』を取り上げたときは、バリー・N・マルツバーグについてほとんど知識がなく、SF作家であることくらいしか知らなかったのですが(※1)、その後、ちょっと変な本を入手したので紹介したいと思います。

 マルツバーグはデビュー当時、SFやファンタジーを書く傍ら、糊口を凌ぐためか、メル・ジョンソンやジェラルド・ワトキンスといった筆名でポルノグラフィを執筆していました(ロバート・シルヴァーバーグもドン・エリオット名義で性愛小説を書いていた。『明日なんかいらない』のみ邦訳されている)。
 ところが、『スクリーン』(写真)は、なぜかマルツバーグ名義で発表されています。

 SF作家が偽名を用いずに書いたポルノグラフィといっても、フィリップ・ホセ・ファーマーのようなものを期待しては駄目で、『スクリーン』の場合、SFの要素はほとんどありません。
 とはいえ、とんでもなさは保証します。何しろ、帯に書かれているとおり、エリザベス・テイラー(リズ)、ブリジット・バルドー(ベベ)、ソフィア・ローレンドリス・デイらが実名で登場し、セックスしまくるのですから。

 SFの要素はないと書きましたが、筒井康隆の「日本以外全部沈没」は、グレース・ケリー、リズ、オードリー・ヘップバーンクラウディア・カルディナーレ、ローレン、ベベ、カトリーヌ・ドヌーヴロミー・シュナイダー、ボンドガールらと簡単にセックスできるという、ある意味、似たような状況を描いていますから、SF作家らしい発想といえるのかも知れません。

 それにしても、こういうのはどこまで許されるのでしょうか。
 ロアルド・ダールの『オズワルド叔父さん』は対象者が故人だったし、「日本以外全部沈没」は日本語なので対象者が目にする機会は少なかったでしょうが、『スクリーン』は、執筆当時、第一線で活躍していた女優や歌手たちについて英語で書いてしまったわけですから、なおさら吃驚させられます。
 大らかな時代だったのか、名誉毀損で訴えられるほどメジャーな作品でなかったのか。いずれにせよ、現代では出版することは難しい小説であることは間違いないでしょう。

 一方、内容の凄さと比較すると『スクリーン』というタイトルは大人しすぎたのか、その後、『スター狩り』『ブラック・エクスタシー』と二度も邦題を変え、刊行されました。

 役所の福祉課に勤めるマーティン・ミラーは映画鑑賞が生き甲斐で、仕事中はいつも上の空です。仕事を早く切り上げて、映画館へゆき何度も同じ映画をみたりします。馘首されそうになっても、どこ吹く風と聞き流します。
 彼の特技は、別人になり切ってスター女優と交合すること。マルチェロ・マストロヤンニになってローレンやリズと、カメラマンになってオードリー・ヘップバーンと、ロジェ・ヴァディムになってベベと、ロック・ハドソン(※2)になってデイと、思う存分セックスに耽るミラーですが、このようなことを続けていてよいのか悩むこともあります。

 妄想のなかで生きる男というと、ジェイムズ・サーバーの「虹をつかむ男」のウォルター・ミティ、ロバート・クーヴァーの『ユニヴァーサル野球協会』のヘンリー・ウォー、リチャード・ブローティガンの『バビロンを夢見て』のC・カード、「ピーナッツ」のスヌーピーらがすぐ思いつきます。エロティックな妄想という意味では、アルトゥル・シュニッツラーの『夢小説』のフリードリーンが近いかも知れません。
 いずれも性別が「♂」で、生きづらい現実から夢の世界へ逃避するという共通点がありますが、ミラーも勿論そうです。妄想に取り憑かれている彼の仕事や日常生活、人間関係などはないがしろにされます。やがて、空想が現実を凌駕してゆくわけです。

 また、一口に「妄想」といっても、作品や登場人物によってそれぞれルールがあります。『スクリーン』の場合は、以下のような感じ。
・ミラーは様々な人物になるが、セックスの経験は共有しているらしい。例えば、ヴァディムになってベベと結婚していても、ローレンやリズと性的体験をしたことになっている。
・有名人たちは、実際の夫妻もいるし、映画の役柄での夫妻もいる。
・妄想は一回で完結せず、断続的に進行してゆく。また、複数の妄想が代わる代わる現れる。途中で混じり合うこともある。
・ミラーは映画を媒介して妄想に入るものの、映画の内容は認識していない。
・現実の女性とも関係を持つ。

 ミラーには、現実でもバーバラという彼を慕う同僚がいます。彼女は、電話を掛けるとミラーのアパートまでいそいそとやってきます。
 さらに、ミラーは映画館の売店の売り子に冷ややかな目でみられたことをきっかけに、妄想を恥ずべき行為と感じ始めます。それをやめようとし、一時は競馬に打ち込んだりします(ここではエロティックではない空想に耽る)。

 これらは、空想に生きる男としては許しがたい行為です。
 ミラーは少年時代から銀幕のなかの美女と逢瀬を重ねてきた筋金入りの妄想家なわけですから、現実では女に全く相手にされない孤独な男にした方が哀しみや滑稽さが出る。しかも、反省なんてもっての外だ、なんて思っていると……。

 ミラーがバーバラとセックスをすると、一度は捨てようとした妄想のなかの女優たちが「私たちを忘れないで」と話しかけてくるではありませんか。
 それによって目が覚めた(この場合は、通常とは逆の意味)ミラーは、本来の居場所である空想の世界にあっさりと戻ってゆきます。

 何のことはない、ミラーの一時の葛藤は、空想の魅力を再認識するための通過儀礼だったというわけです。
 現実は窮屈で時間にも限りがありますが、妄想は自由で無限です。その素晴らしい場所を手放す理由がどこにあるでしょうか。それに比べたら、役所をクビになることや、恋人を失うことなど、些細な問題に過ぎません。
 何しろミラーもまた、紛うことなき妄想家の系譜に連なる存在なのですから。

※1:調べると、第一回ジョン・W・キャンベル記念賞を受賞した『アポロの彼方』が邦訳されていた。

※2:現実では、同性愛者だった。


『スクリーン』中村康治訳、三笠書房、一九七〇

→『決戦! プローズ・ボウルビル・プロンジーニ、バリー・N・マルツバーグ

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