読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『決戦! プローズ・ボウル』ビル・プロンジーニ、バリー・N・マルツバーグ

Prose Bowl(1980)Bill Pronzini, Barry N. Malzberg

 ビル・プロンジーニは、「名無しの探偵」シリーズで有名なミステリー作家。ただし、僕は推理小説をほとんど読まないので、エラリー・クイーン編の『新 世界傑作推理12選』に収録されている「朝飯前の仕事」という短編しか読んだことがありません(この本は、P・G・ウッドハウスの「エクセルシオー荘の惨劇」目当てで買った)。
 共著者のバリー・N・マルツバーグはSF作家で、単著では『アポロの彼方』が訳されています。
 ふたりは仲がよいらしく、合作やアンソロジーの編纂など多くの仕事をともにしています。

 さて、アメリカ人はスポーツ好きなので、あらゆるものをスポーツにしてしまいます。
 デイヴィッド・プリルの『葬儀よ、永久につづけ』はエンバーミング(遺体防腐処理)をスポーツにしましたが、『決戦! プローズ・ボウル』(写真)はパルプフィクションの速書きをフットボールアメリカンフットボール)に準えています(※)。
 当然ながら、「プローズボウル」は、ローズボウル(毎年元日に行われるカレッジフットボールの伝統的な一戦)のもじりです(proseは散文のこと)。
 一方、この作品はSF小説でもあり、ロバート・ブラウンの『プレーボール! 2002年』なんかと同じ系統といえるかも知れません。

 二〇五一年のアメリカ。かつて人気のあった四大スポーツ(MLB、NHL、NFL、NBA)の代わりに、ニュースポーツと呼ばれるパルプフィクションの速書きが人々を熱狂させています。
 売り出し中のパルプライターであるメタファ・キッドことレックス・サケットは、念願だったプローズボウル出場を勝ち取ります。喜びも束の間、さる編集者から八百長を持ちかけられ、キッパリと断ったところ、婚約者が誘拐されてしまいます。わざと負けないと彼女がどうなるか分からないという状況に追い込まれたのです。

 一九二〇年代のアメリカにおいて、安価で質の悪い紙を用いた大衆向けの娯楽小説誌(パルプマガジン)が流行しました。そこに掲載された小説はパルプフィクション、その書き手はパルプライターと呼ばれました。
 代表的なものとして、ターザン、キャプテン・フューチャー、コナン、怪傑ゾロ、フラッシュ・ゴードンなどがあげられるでしょうか。
 しかし、パルプマガジンは、テレビやコミックといった新しい娯楽に押され、一九五〇年代には表舞台から姿を消してしまいました。

 それが、どうして百年後に復活したかというと、この時代、識字率が極端に低下しており、その対策としてパルプフィクションの速書きがスポーツ化されたという設定になっているのです。要するに、パルプ作家をヒーローにすることで、国民が文字を読むようになるという塩梅。
「字が読めない者が多いのに速書き競技に人気が出るのか」とか、「なぜ普通の小説ではなく、パルプフィクションなのか」といった疑問を抱いてしまっては作者たちの思う壷です。プロンジーニとマルツバーグはSF小説の形を借りて、「本当に役に立つのは高尚な文学などではなく、大衆性のあるパルプフィクションである!」とパルプへの愛を叫びたかったからです。

 かつて大衆に支持されながら、滅亡していったパルプフィクションを虚構のなかで甦らせるにあたり、彼らは競技化するアイディアに至ったのではないでしょうか。
 パルプ作家の「質は二の次で量産が求められた」「ミステリー、冒険小説、ロマンス、SF、西部劇などあらゆるジャンルについて書く才能が必要だった」「長編ではなく短編を主に書かされた」といった特徴が、スペクテイタースポーツ(多くの観客を集めるスポーツ)と共通点があると考えたのかも知れません。

 なお、この競技には、以下のようなルールが設けられています。
・どんなテーマで書かされるかは、当日にならないと分からない。
・先に八千字書いた方が勝ち。二千字ごとに休憩が入るクォーター制(プローズボウルは一万字)。
・内容、文法、比喩、慣用句等に誤りがないか判定する審判がいて、違反するとペナルティを課せられる。
・燃料と呼ばれるアルコールの補給が重要となる。

 しかし、こんな競技、出場者はともかく、観客は余り面白くないでしょう。
 試合を観戦しつつ、同時に書かれたふたつの小説を読むなんて現実的じゃないし、速く書けば書くほど仕上がりは雑で陳腐になるのは否めないからです。それだけならまだしも、物語を完結させず試合放棄する作家もいたりするので、観客が満足感を得るのは困難と思われます。

 僕ら『決戦! プローズ・ボウル』の読者にとっても、同様の現象が起こります。
 サケットたちが書く小説はただの断片でしかなく、あらすじすら不明です。短編として完成されているとか、ストーリーと密接なかかわりがあるとかなら楽しいかも知れませんが、無意味な文章の羅列をひたすら飲み込むしかないのは苦痛以外の何ものでもありません。
 つまり、物語のクライマックスであるプローズボウルの件が最も詰まらないのが、この小説の最大の欠点なのです(例えば「対戦相手が誘拐犯で、彼の書いた文章から彼女の居場所を推理するが、駆けつけたくとも試合放棄は避けたいと葛藤する」なんて展開だったらドキドキしたかも)。

 唯一面白いと感じたのは、語り手のキッドが自分のピンチをパルプフィクションとして描写してしまう点です。競技中、彼らの書いた小説の部分は太字で表されるのですが、私生活でも自らの身に危機が訪れると、突如パルプの主人公となってしまいます。
 この部分を発展させれば、ジェイムズ・サーバーの「虹をつかむ男」のように面白いものができあがっていたかも知れませんが、残念ながらちょっとしたアイディアとして処理されており、どこにも辿り着きません。
 物語自体は実にオーソドックスで、バーナード・マラマッドの『ナチュラル』のパロディといえなくもないので、もうひと工夫が欲しかったですね。

 最終章で、プローズボウルに敗れた老作家が「パルプ作家なんてすぐに消えてゆく運命にある」と嘆きますが、観客(読者)を無視したひとり善がりの競技(娯楽)などに未来がないのは明白です(加えて、女性や有色人種はこの競技に勝てないと蔑む点もダメ。未来の話なのに東洋人の容姿はフー・マンチューだったりする)。
 実際、現実のパルプフィクションも、ほかの娯楽に読者を奪われたというより、粗製乱造が自らの首を絞めたといえます。
 そして、現代の商業小説は、パルプ全盛の時代を懐かしむ余裕などないほど窮地に陥っているような気がします。これからの作家は、過去の反省を生かし、読み手を飽きさせないためには何をすればよいかを極限まで問い詰めて欲しいと切に願います。

※:『決戦! プローズ・ボウル』は、元は短編だった(『一ダースの未来 −SF合作ゲーム傑作選』に収められている「プローズ・ボウル」がそれ)。未読だが、この短編は、長編の三章と四章の一部に組み込まれたらしい。

『決戦! プローズ・ボウル −小説速書き選手権』黒丸尚訳、新潮文庫、一九八九

→『スクリーン』バリー・N・マルツバーグ

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