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読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『浴槽で発見された手記』スタニスワフ・レム

ポーランド

Pamiętnik znaleziony w wannie(1961)Stanisław Lem

 この作品は、サンリオSF文庫より少し早い一九八〇年に『浴槽で発見された日記』というタイトルで集英社からも発行されていました(そちらは深見弾訳)。
 集英社はSFに強いというイメージはありませんけど、スタニスワフ・レムの作品はよく出していました(『星からの帰還』『宇宙創世記ロボットの旅』『泰平ヨンの未来学会議』『ヨン博士の航星日記』など)。尤も、当時はSFブームだったので、様々な出版社から玉石混淆のSFが発行されていたわけですが……。

「そんな無茶な!」といわれるのを承知で書きますが、レムの小説を一言でいうと「人類が、自らの知性や科学を超えた現象に出合ったとき、一体どうするか」になるでしょうか。
 それは純粋なSF作品は勿論、『捜査』や『枯草熱』といった現代小説(ミステリー)でも共通したテーマです。一応の答えが用意されていることもありますし、登場人物にとっても読者にとっても、何だかさっぱり分からないこともあります。
 ときに首を傾げながら、挫けずレムの小説を読み続けるのは、科学の専門知識や難解な議論の先に、日常生活のなかでふと頭に浮かぶ本質的な問いと共通するものが隠れているような気がするからです。

 とはいえ、『浴槽で発見された手記』は、なかなかの難物です。
 レムのほかの作品が「現代人、あるいは現代人と共通認識を有する者が、未知のできごとをどう解釈するか」なのに対して、この作品は「遥か未来の者が、二十世紀の人間の手記をどう解釈するか」だからです。

 いや、実際は、そんなことが問題ではありません。手記の内容は、同時代の読者が読んでもチンプンカンプンです。
 つまり、惑星探検隊が天王星より持ち帰ったハルシウス因子が、世界中の紙を分解してしまい、人類は大混乱に陥ったとか、貴重な手記がペンタゴンの浴槽から発見されたとかいうのは、単なるジョークなのかも知れません(レムは『砂漠の惑星』でも、浴槽で歯形のついた石鹸を発見させている)。
 架空の本の書評集『完全な真空』や、架空の本の序文集『虚数』を書いたレムならではの、いかにも人を食った設定ではありませんか。

 さて、手記の内容は、概ね以下のとおりです。
 宇宙管区総司令部の長官に極秘の任務をいい渡された「わたし」。けれど、その指令が一体何なのか不明ですし、出会う人たちの行動もまるで理解できません。その癖、機密が漏洩していると疑われたり、陰謀を匂わされたりするのです。
 加えて、指令書は勿論、挨拶、日常会話、人の名前までもが暗号になっていて、さらに階が変わると、その意味まで変わってきてしまうというややこしさ。
「わたし」は、混沌としたまま広大なペンタゴンをうろつきまわります。やがて、本庁の出口である〈門〉がみえてくるのですが……。

 フランツ・カフカの『城』は、無数の謎からでき上がっています(主人公のKはなぜ村にやってきたのか。どうして城に辿り着けないのか。そもそも、城とは何なのか)。
 いや、この作品には、解けない謎しか存在しないといっても過言ではありません。
『浴槽で発見された手記』も、それとよく似ています(※)。というか、未完に終わった『城』で、Kは城に近づくことができませんでしたが、レムはまるでその続き(城の内部)を書いたかのようです(Kとは逆に、外に出られない)。
 とにかく、上述した数多くの不条理な謎が、主人公(名前はない)、そして読者の頭を悩ませ、煙に巻くのです。

 それでも読者は、そこから何かを読み取ろうとします(当然、それは自然な行動である)。
 例えば、陰謀と裏切りが渦巻く巨大な組織の指揮系統の馬鹿馬鹿しさや理不尽さ、そのなかで歯車と化した個人の空しさといったことを諷刺しているといった具合。
 しかし、レムがその程度のことに貴重な一冊を費やすでしょうか。

 レムは、一九五〇年代に書いた作品を気に入っておらず、『Obłok Magellana』や『Czas nieutracony』などは存在しなかったことにしたかったそうです。実際、泰平ヨンシリーズの「第二十六回、そして最後の旅」は、改訂に伴い封印してしまいました(日本では、一九六七年発行のハヤカワ・SF・シリーズの『泰平ヨンの航星日記』でのみ読める)。
 もし、『浴槽で発見された手記』が、青臭い体制批判のみで成り立っていたら、それらと同じ扱いにされていたに違いないと思うのです。

 この作品の場合、読者が勝手な解釈を施すべきではない、と僕は思います。
 分かりやすいアレゴリーはその役目を十分に果たすとはいえませんし、逆に読み解くのが困難なものは大いなる誤読の可能性がつきまといます。いや、そもそもレムは寓意など含めていないような気がするのです。
 では、一体、何のために書かれたのかというと、そこに意味のあることが一切ないことを伝えるためではないでしょうか。
 いえ、正確にいうと「意味がない」のではなく、「意味がないという意味がある」のですが……。

 レムが、『浴槽で発見された手記』に「遺物」という外枠を用いたのも、そこからは何も解読できないことを示したいがためだったのではないでしょうか。
 手記を発見した未来人は、必死に解読しようと試みますが、恐らくは意味のあることなど何ひとつ発見できないと思われます。
 僕たち読者も、つい、彼らと同じことをしてしまうはず。
 それがいかに馬鹿げた行為なのか、レムの嘲りがみえるようではありませんか。

 知識を得たり、心を動かされたりすることも大切かも知れませんが、小説を読む理由はそれだけではありません。本を一冊読んだということ以外に一切得るものがなくとも、腹を立てる必要などないのです。

 ……と書くと、恐ろしく詰まらない小説と思われるかも知れませんが、決してそんなことはありませんので、ご心配なく。
 亡霊の住むペンタゴンを彷徨う「わたし」には陰鬱さが少ないせいか、とても読みやすい。シェイクスピアを無理矢理暗号にして解読したり、生命が発生する確率が0になるという理論を構築したり、毒を飲んで死んだ老人と死体や骸骨になっても対面したりと、レムならではの理屈っぽさと突飛なアイディアが、きちんと笑いにつながっています。
 不条理文学、ブラックユーモア、ナンセンス、シュルレアリスムなどの境界は曖昧ですが、いずれも「笑い」は重要な要素です。
 そういう意味で『浴槽で発見された手記』は、レムの作品群においても、十分、合格点に達していると思います。

※:物語がひとつの建物内で完結する点は、カフカと同じチェコの作家ヤン・ヴァイスの『迷宮1000』を思い出させる。

『浴槽で発見された手記』村手義治訳、サンリオSF文庫、一九八三

→『泰平ヨンの航星日記』『泰平ヨンの回想記』『泰平ヨンの未来学会議』『泰平ヨンの現場検証』スタニスワフ・レム

サンリオSF文庫、サンリオ文庫
→『マイロンゴア・ヴィダル
→『どこまで行けばお茶の時間アンソニー・バージェス
→『深き森は悪魔のにおい』キリル・ボンフィリオリ
→『エバは猫の中ガブリエル・ガルシア=マルケスオクタビオ・パスほか
→『サンディエゴ・ライトフット・スー』トム・リーミイ
→『ラーオ博士のサーカス』チャールズ・G・フィニー
→『生ける屍』ピーター・ディキンスン
→『ジュリアとバズーカアンナ・カヴァン
→『猫城記』老舎
→『冬の子供たち』マイクル・コニイ
→『アルクトゥールスへの旅デイヴィッド・リンゼイ
→『旅に出る時ほほえみを』ナターリヤ・ソコローワ
→『』ロザリンド・アッシュ
→『2018年キング・コング・ブルース』サム・J・ルンドヴァル
→『熱い太陽、深海魚』ミシェル・ジュリ
→『パステル都市』M・ジョン・ハリスン
→『生存者の回想』ドリス・レッシング
→『マラキア・タペストリ』ブライアン・W・オールディス
→『この狂乱するサーカス』ピエール・プロ
→『バドティーズ大先生のラブ・コーラス』ウィリアム・コツウィンクル
→『どこからなりとも月にひとつの卵』マーガレット・セントクレア
→『飛行する少年』ディディエ・マルタン