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読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『アルクトゥールスへの旅』デイヴィッド・リンゼイ

スコットランド

A Voyage to Arcturus(1920)David Lindsay

 サンリオ文庫のコンプリートまで、いよいよ残り一冊となりました。
 こういう時代ですから、その気になればいつでも揃ってしまうのですが、簡単に入手したのでは面白くありません。掘り出しものとの出合いを気長に待ちたいと思います。

 さて、この小説は、サンリオより半年ほど早く、国書刊行会の「世界幻想文学大系」という叢書から『アルクトゥルスへの旅』のタイトルで刊行されました(上下巻)。けれど、サンリオ版は加藤直之のカバーイラストが素晴らしいので、状態のよいものがみつかれば、ぜひ手に入れて欲しいと思います(カバーにPPがかかっていないので、コンディションのよいものは、なかなかみつからないが)。

 また、同じサンリオSF文庫の『憑かれた女(The Haunted Woman)』(一九二二)には、『アウトサイダー』で有名なコリン・ウィルソンの「不思議な天才(The Haunted Man : The Strange Genius of David Lindsay)」という評論が収められています(※)。
 生前、黙殺と酷評に晒され、失意のまま亡くなったディヴィッド・リンゼイを発掘したウィルソンならではの愛に満ちた論文なので、二冊セットでの入手をお勧めします(ウィルソンは『文学の可能性』や『夢見る力 ―文学と想像力』でも本作について触れている)。

アルクトゥールスへの旅』は、ウィルソンが惚れ抜いただけあって、一言ではいい表せない不思議な小説です。どこが変なのかというと、こんな感じ。

 冒険好きで刺激を求めていたマスカルは、降霊術の会場で、クラッグという奇妙な男に声をかけられ、友人のナイトスポーを加えた三人で恒星アルクトゥールスを回る惑星トーマンスへ向かいます。しかし、到着と同時に、マスカルはふたりとはぐれてしまいます。
 しかも、彼の体からはいつの間にか新しい器官が生え、ある女性によって血液まで入れ替えられてしまいます。これによって、マスカルはトーマンスに適応できるようになりました。
 その後もマスカルは自らの体を変化させ続け、様々や人や生きものに出会うことで自己を発見してゆきます。
 やがて、死期が近づいていることを知ったマスカルは、クラッグと再会するのですが……。

 今から百年近く前の作品です。当時、SFやファンタジーというと、児童向けや、諷刺を目的とした小説が多くを占めていた時代ですから、大人が読める本格的な娯楽SFの先駆けとしての価値は大いにあるでしょう。知名度には雲泥の差がありますが、エドガー・ライス・バローズの火星シリーズ(第一作の『火星のプリンセス』は一九一七年発行)に匹敵するとさえ思います。
 刊行時、「病的空想の莫迦騒ぎ」「初めから終りまで不健康の連続」(タイムズ文芸付録)などと評され、ほぼ無視されたのが信じられません。

 ところが、『アルクトゥールスへの旅』は今日において、娯楽SFと同じ次元で評価されているわけではありません。
 SFはSFでも「サイエンスフィクション」ではなく、「スペキュレイティブフィクション」と呼ばれていることからも分かるとおり、現実とは異なる世界での体験を思弁的に描いた小説とされているのです。

 例えば、普通の冒険SFであれば、主人公は武器や、戦闘系の特殊能力や、経験に基づく知恵などを駆使して、異世界で生き抜いてゆきます。
 しかし、マスカルが得るものといえば、あらゆる生きものに共感できるようになる「ポイグンズ」、愛を伝える「マグン」、互いの考えを読み取る「ブリーヴ」、必要に応じて重要なものとそうでないものを分ける眼「ソーブ」など、ヘンテコな器官ばかり。
 ほかには、意志の力で他者を操ったり、他人を「吸収」してしまったりもしますが、これも食うか食われるかという緊迫感はなく、一種のイニシエーションといえます。

 そうした特異性故でしょうか。はじめのうち、荒唐無稽な異世界のできごとだと呑気に構えていたのに、読み進めるに従って、異様な現実感が伴ってくるのが不思議です。
 額に眼が開いたり、三本目の腕が生えてきたりするにもかかわらず、マスカルの苦悩に、違和感なく感情移入できてしまうのです。
 これこそが、現実と虚構の区別がつかなくなっていることの証明といえるのではないでしょうか。

 それにしても、アルクトゥールスとは一体、どのような世界なのでしょうか。
 すぐに気づくのは、あらゆるものが重層的という点です。
 地球での生活が「現実」だとすると、惑星トーマンスでの冒険は「虚構」ですが、さらにその裏返しとしてマスペルという世界まで存在します。また、サーターはクリスタルマンでもありシェイピングでもありクラッグでもありますし、マスカルとナイトスポーも表裏の関係にある。
 そもそもほとんどの固有名詞が、ルイス・キャロルが用いた「かばん語」なのです(実をいうと、この小説は、何より『不思議の国のアリス』と共通点が多いと思う)。例えば「マスカル(Maskull)」は「マスク(mask)」と「スカル(skull)」からなるかばん語です。

 虚でもあり実でもある世界の二重構造や、アレゴリカルな挿話は、多様な読解を可能にしています。そんななか、僕が注目したいのは、この作品が最初から最後まで、死の臭いに満ちている点です。

 降霊術で殺される霊に始まり、マスカルが出会う人々の多くは自殺をしたり、殺害されたり、吸収されたりして命を落とします。マスカル自身も幻覚のなかで殺され、また、様々な理由で人を殺めます。
 勿論、それらはただの死ではありません。
 元の状態へ戻るだけというケースもあります(無から生じ、無に帰す)が、多くは新たな世界への旅立ちとなります。
 それ故、人々は死を全く恐れず、それどころか自分がいつ死ぬのか承知しているのです。

 彼らが向かうのが異星なのか、虚構のなかなのか、死後の世界なのかは分かりません。けれど、現実のすぐ近くにある異世界へ旅をするには、死を介する必要があるように思えます。
 そう考えると、マスカルは、物語の最初の舞台である降霊術会において、既にクラッグに殺されていたのかも知れません。そして、中盤に再度、そのときの霊としての死を体験し、ラストでさらにもう一度死ぬのです(その後、ナイトスポーとして再生する)。

 マスカルの三度の死は、地球、クリスタルマン世界、マスペルという三つの世界を旅するチケットであるのですが、終着点に待っていたのは絶望でした。
 ナイトスポーが見出したマスペルは、自分と自分が座っている石の塔からなるごく狭い世界にすぎなかったことがラストで明らかにされ、彼の長い旅は終わりを迎えます。

追記:二〇一四年一月、文遊社から復刊されました。

※:「不思議な天才」という評論は、タイトルをもじっているので『憑かれた女』に収録されているが、主として『アルクトゥールスへの旅』について述べられている。
 そのせいか、復刊された文遊社版の『憑かれた女』には収められていないので、注意が必要。尤も、これは版権の問題なのかも知れない。


アルクトゥールスへの旅』中村保男、中村正明訳、サンリオSF文庫、一九八〇

サンリオSF文庫、サンリオ文庫
→『マイロンゴア・ヴィダル
→『どこまで行けばお茶の時間アンソニー・バージェス
→『深き森は悪魔のにおい』キリル・ボンフィリオリ
→『エバは猫の中ガブリエル・ガルシア=マルケスオクタビオ・パスほか
→『サンディエゴ・ライトフット・スー』トム・リーミイ
→『ラーオ博士のサーカス』チャールズ・G・フィニー
→『生ける屍』ピーター・ディキンスン
→『ジュリアとバズーカアンナ・カヴァン
→『猫城記』老舎
→『冬の子供たち』マイクル・コニイ
→『旅に出る時ほほえみを』ナターリヤ・ソコローワ
→『』ロザリンド・アッシュ
→『浴槽で発見された手記スタニスワフ・レム
→『2018年キング・コング・ブルース』サム・J・ルンドヴァル
→『熱い太陽、深海魚』ミシェル・ジュリ
→『パステル都市』M・ジョン・ハリスン
→『生存者の回想』ドリス・レッシング
→『マラキア・タペストリ』ブライアン・W・オールディス
→『この狂乱するサーカス』ピエール・プロ
→『バドティーズ大先生のラブ・コーラス』ウィリアム・コツウィンクル
→『どこからなりとも月にひとつの卵』マーガレット・セントクレア
→『飛行する少年』ディディエ・マルタン