読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『蜘蛛の家』ポール・ボウルズ

The Spider's House(1955)Paul Bowles

 音楽家としても有名なポール・ボウルズは、『シェルタリング・スカイ(極地の空)』(1949)の大ヒットによって期待の新鋭作家として注目されました。ところが、栄華は続かず、一九六〇年代以降には、ほぼ忘れられていました。
 再び注目されるきっかけとなったのが、ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画『シェルタリング・スカイ』(1990)でした。そのお陰で、小説のみならずエッセイ、詩、自伝など主要作品のほとんどが訳されることになったわけですから、大いに感謝しなければいけません(といいつつ、映画自体はみていない)。

 ボウルズの長編は全部で四作ありますが、そのどれもが「文明社会で暮らす富者が異文化に接し、価値観を根底から覆され、心も体も崩壊する」というプロットになっています。
 作品の舞台となるのは、『シェルタリング・スカイ』『雨は降るがままにせよ』『蜘蛛の家』(写真)がモロッコ、『世界の真上で』のみ中南米です。
 執筆された時期が後になるほど難解になります。一九六六年に書かれた『世界の真上で』などは幻覚と現実が入り交じり、ボウルズの筆も不親切なため、読者が想像力を働かせて読み解かないと「ソトがスレイド夫妻を麻薬漬けにして監禁し、最後には殺してしまう理由が、母親殺しを隠蔽するため」だったことに気づかないかも知れません。

 それほど分かりにくくはないけれど、『蜘蛛の家』も複雑な構造を有しています。
 ほかの長編は、ただの旅行者が異国で事件に巻き込まれるといった、いわば単純な物語ですが、この作品は一、二部がモロッコ人の少年アマールの物語、プロローグと三部がフェズ滞在中のアメリカ人作家ステンハムの物語となっており、それが四部(正確には三部の終わり)で混じり合います。
 さらに、もうひとり視点となる人物(恐らくはタンジールに移住してきた友人のウィリアム・S・バロウズから取ったと思われるリー・バロウズという若く美しい夫人)が登場しますが、互いに理解し合うことはできず、空しくすれ違ってしまいます。

 例えば、リーは、自分が進歩的で利口で行動力があると思っており、途上国の人々は平等でないと憐憫するなど底の浅い偽善者ぶりを発揮することで、ステンハムを白けさせます(ただし、彼は大いに下心あり)。
 一方で、アマールは、もしモロッコが文明開化したら、獰猛な生きものである女を閉じ込めておくための檻を作るだろうなどと考えるのです。
 わざわざ年齢も人種も性別も異なる人物(大雑把に分類すると、アマールはイスラム主義者を、リーは植民地主義者を代表し、ステンハムはどっちも嫌という立場)を配置したのですから、それは当然のことであり、その相違にこそ意味があります。

シェルタリング・スカイ』は、異国情緒やショッキングな展開が一般受けした要因のひとつかと思います。勿論、見知らぬ国の息吹が生々しく感じられる点は素晴らしいのですが、ボウルズがタンジール(タンジェ)に移り住んで日が浅かったせいか、やや表面的な印象を抱いてしまうことも確かです。
 他方、『蜘蛛の家』は、当時のモロッコの状況がリアルに描写されており、ボウルズの作品のなかでは極めて政治的といえるでしょう。
 モロッコは、この本が出版された翌一九五六年にフランスから独立しました。つまり、『蜘蛛の家』はその前夜の混乱と激動を、前述した三者の眼によって、ほぼリアルタイムに描いており、それが小説として深みをもたらしているのです。

 しかし、それは偶然によるものが大きかったようです。
 ボウルズの思いは、失われゆく文明、つまり中世の面影を残し、迷宮と称されるフェズの旧市街に向かっています。それを文学として描くことが第一であり、フランス軍ベルベル人とイスティクラル党(独立党)との争いになんて、さほど興味はなさそうに感じます。もし、独立闘争がテーマであれば、戦局が一段落してから物語をまとめたのではないでしょうか。
 要するに、モロッコ独立は執筆期間とたまたま重なったに過ぎず、たとえ十年時間がずれていたとしても『蜘蛛の家』は別の形で書かれていたような気がします。

 なお、この小説がほかの長編と異なるのは、登場人物が目にみえる試練に遭遇しない点です(アマールは可哀想だが、命までは奪われない)。過去の文化や古い街並への愛と同様、人間に対する眼差しも温かく感じます。
 前述したとおり、『シェルタリング・スカイ』と比べると、温さが目立ち、ボウルズの最高傑作といわれつつ、今ひとつ読まれていないのも、その辺に理由がありそうです。
 けれど、とってつけたような悲劇は、一瞬のカタルシスこそ得られるものの、いかにも人工的な印象を与えてしまいます(それがボウルズのよさでもあるが……)。『蜘蛛の家』は、不幸が降り注ぐ雰囲気がぷんぷんするものの(特にリーに)、ぐっと我慢したところが、よい意味で期待を裏切っているといえます。

 ひょっとすると、ステンハムは、アメリカ人の作家であること、また過去に共産党に入党していた経験を持つことから、ボウルズの分身ともいえる人物であり、アマールにもモデルがいることが影響しているのかも知れません。
 いや、それよりも、やはり彼らにはモロッコの未来を見届ける義務があるのでしょう。
 右に転ぶか、左に転ぶか。モロッコの行方が全く分からない時期に敢えて上梓したのも、そうした意味があるとしたら納得です。

『蜘蛛の家』四方田犬彦訳、白水社、一九九五

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