読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『この世の王国』アレホ・カルペンティエル

El reino de este mundo(1949)Alejo Carpentier

 サンリオはアレホ・カルペンティエルがお気に入りだったのか、『バロック協奏曲』がサンリオSF文庫から、『この世の王国』(写真)がサンリオ文庫から刊行されました。
『この世の王国』はサンリオより先の一九七四年に創土社から出版されており(神代修訳)、サンリオ文庫亡き後は水声社で復刊されました。

 ただし、短編「亡命者庇護権」が併録されているのはサンリオ文庫だけです。
 読む価値のある短編ですので、できればサンリオ文庫を入手して欲しいと思います。

この世の王国」El reino de este mundo(1949)
 一七五〇年代から一八二〇年代のハイチを描いた作品。カルペンティエル自身の「序」にあるとおり、歴史的真実を重視して書かれています。
 当時のハイチは、サン=ドマングと呼ばれたフランスの植民地でしたが、黒人奴隷の反乱が何度も起こり、その結果、中南米初の独立を勝ち得ました。『この世の王国』は、それを四部仕立てで表現しています。

 一部では、フランソワ・マッカンダルの反乱が描かれます。
 圧搾機に巻き込まれ片腕になった奴隷のマッカンダルは、農園から逃亡し、毒を用いて白人たちを殺し始めます。大掛かりな捜索が行なわれますが、祭司マッカンダルはブードゥーの魔術を操り、動物や昆虫に変身し、難を逃れます。しかし、マッカンダルは捕らえられ、火炙りの刑に処されます。

 二部は、一部の約三十年後です。
 ジャマイカ人ブックマンの主導による白人の虐殺が起こり、ナポレオン・ボナパルトはシャルル・ルクレルク将軍をハイチに派遣します。ルクレルクは反乱を鎮圧しますが、黄熱で亡くなってしまいます。

 三部は、ハイチ独立後です。
 建国の父ジャン=ジャック・デサリーヌが暗殺された後、権力を握ったのはデサリーヌの側近だったアンリ・クリストフでした。しかし、クリストフは黒人奴隷出身にもかかわらず圧政を敷いたため、反乱を招き自決します。

 四部は、南北に分裂していたハイチを、大統領ジャン=ピエール・ボワイエが統一します。
 かつては考えられなかったムラート(混血)の地主が現れるなど、時代が大きく変わってゆきます。

 この世の王国において、偉大なもの、至高のものを見出すことができるのは、貧困に喘ぎながらも気高さを保ち、逆境にあっても人を愛することができる人だけなのです。

 このように書くと、コンキスタドールたちの血腥い争いを描いたミゲル・オテロ=シルバの『自由の王 ―ローペ・デ・アギーレ』のような大作を想像されるかも知れませんが、『この世の王国』は文庫本で僅か百五十頁しかありません。
 急ぎ足で進んでゆきながら単なる歴史の要約に終わらなかったのは、この小説がブードゥーを当たり前のように信じている黒人奴隷ティ・ノエルの視点を取っているからです。
 要するに、西洋の合理的な目でハイチの歴史を捉えるのではなく、人間が動物に変身してしまったり、火刑に処された男が帰ってくると考えている者たちにとっての「歴史的事実」を書き出しているのです(ティ・ノエル自身も老境に至り、動物に化けられるようになる)。

 そうした「現実の驚異的なもの」はアメリカ大陸全体が遺産として受け取った共有財産だとカルペンティエルはいいます。
 それを敵に回した時点で白人に勝ち目はありません。ブードゥー教を捨て、カトリックによる貴族階級を作ろうとしたクリストフも然りです。

 さらに、文学としても、紛いものの驚異を演出するシュルレアリスムなどは、南米のマジックリアリズムの足元にも及ばないということでしょう。
 来たるべきラテンアメリカ文学ブームを予言しており、そうした意味でも興味深い作品です。

 なお、『この世の王国』と、アンナ・ゼーガースの『ハイチの宴』は同じ年に出版されています。不思議な偶然ですね。

亡命者庇護論」El derecho de asilo(1972)
 南米の某国でクーデターが起こり、官房長官は近くの小国の大使館に逃げ込みます。そこで庇護されながら、国境問題を解決したり、大使夫人と浮気をしたりする官房長官
 やがて、功績が認められた彼は、その国の国籍を取得し、新しい大使として任命されます。古い大使は左遷され、大使夫人は秘書として残ることになります。また、クーデターを起こした将軍ともよい関係を築くことができました。

 冗談のようなユーモア短編ですが、南米においては冗談どころではなく、常にあり得る話だそうです。
 クーデターが成功すると、古い政府関係者は殺されたり、国を追われたりするわけで、南米の人々はこれを読むと様々なことを思い浮かべるのではないでしょうか。
 指導者が変わっても、考えるのは女のことばかりというのも、いかにもという感じがします。

 三人称、二人称、一人称と展開によって叙法が変わるのは、政府の要人からただの亡命者に転落し、再び浮上する主人公の立場を表しているのでしょう。
 前述した『自由の王 ―ローペ・デ・アギーレ』も人称が目まぐるしく変化し、「亡命者庇護論」と同様に珍しい二人称も用いられます。オテロ=シルバは、少し年上のカルペンティエルを意識していたのかも知れませんね。

『この世の王国』木村榮一、平田渡、井上義一訳、サンリオ文庫、一九八五

→『失われた足跡』アレホ・カルペンティエル

サンリオSF文庫、サンリオ文庫
→『マイロンゴア・ヴィダル
→『どこまで行けばお茶の時間アンソニー・バージェス
→『深き森は悪魔のにおい』キリル・ボンフィリオリ
→『エバは猫の中ガブリエル・ガルシア=マルケスオクタビオ・パスほか
→『サンディエゴ・ライトフット・スートム・リーミイ
→『ラーオ博士のサーカス』チャールズ・G・フィニー
→『生ける屍』ピーター・ディキンスン
→『ジュリアとバズーカアンナ・カヴァン
→『猫城記』老舎
→『冬の子供たち』マイクル・コニイ
→『アルクトゥールスへの旅デイヴィッド・リンゼイ
→『旅に出る時ほほえみを』ナターリヤ・ソコローワ
→『』ロザリンド・アッシュ
→『浴槽で発見された手記スタニスワフ・レム
→『2018年キング・コング・ブルース』サム・J・ルンドヴァル
→『熱い太陽、深海魚』ミシェル・ジュリ
→『パステル都市』M・ジョン・ハリスン
→『生存者の回想』ドリス・レッシング
→『マラキア・タペストリ』ブライアン・W・オールディス
→『この狂乱するサーカス』ピエール・プロ
→『バドティーズ大先生のラブ・コーラス』ウィリアム・コツウィンクル
→『どこからなりとも月にひとつの卵』マーガレット・セントクレア
→『ジョン・コリア奇談集』ジョン・コリア
→『コスミック・レイプシオドア・スタージョン
→『飛行する少年』ディディエ・マルタン