貓城记(1932)老舍
今回もサンリオSF文庫です(余り続けると興醒めなので、次回から元に戻す予定)。ちなみにコンプリートまで残り四冊になりました。全部集まったら、また何冊かまとめて扱おうと思っています。
さて、『猫城記』(写真)の読み方ですが、中国語は日本語読みするのが慣習ですので、本来なら「びょうじょうき」とか「ねこしろき」とかになるはずです。けれど、この本は、どうやら「マオチョンチ」と読ませるらしい(直訳すると「猫の都の記録」となるか)。なお、老舎は「ラオ・ショー」ではなく、「ろう・しゃ」でオッケーです。
また、この作品は、学習研究社の『老舎小説全集〈4〉』に「猫の国」というタイトルで収録されていますので、そちらを入手されてもよろしいかと思います。
老舎は、ウラジーミル・ナボコフやホルヘ・ルイス・ボルヘスと同じ一八九九年生まれ(一説には一八九八年とも)。義和団事件、日中戦争、文化大革命と激動の時代を生きた作家で、一九六六年に自殺、あるいは暗殺されたともいわれています。
僕は、『猫城記』のほかには『駱駝祥子 −らくだのシアンツ(骆驼祥子)』(これも「ロートシアンツ」と読む)しか読んだことがありませんが、あれは文句なしに面白かった。しかも、岩波文庫に入っており、今でも安価で容易に入手できます。
ちなみに、『駱駝祥子』のあらすじはこんな感じ。
北平(ペイピン。一九二八年、南京を首都にした国民党は、北京を北平と改称した)に住む貧しい人力車夫の祥子(シアンツ)。何年も働き、ようやく自分の人力車を手に入れたものの、兵隊につかまり没収されてしまいます。しかし、逃げ出すとき、車の代わりに三頭の駱駝を連れていきました(そこから「駱駝の祥子」という渾名をつけられる)。
しかし、駱駝は安い値でしか売れず、その後、祥子は再び車を手に入れようと必死に働くのですが、次々に不幸が訪れ、やがて祥子は……。
典型的なプロレタリア文学で、今の時代に読んでも心に響きます。技巧に頼ることのない力強い文体は、無骨だけれど真っすぐな祥子の悲劇、そして混沌とした時代を語るに相応しく、疑念や憤りを覚えつつ、あっという間に読み終えてしまうことでしょう。特に若い方には、お勧めです……って今回の感想文は『猫城記』ですね。この小説から「レア」という文字を消したら、何も残らない……なんてことは、ない……かな。
以下、『猫城記』のあらすじです。
友人とふたりで火星へいった「私」でしたが、飛行機が事故を起こし、火星に不時着し、友人は死んでしまいます。火星には猫人が住んでいて、「私」は彼らにつかまってしまいます。
何とか脱出に成功した「私」は、大蝎(タアシエ)という猫人と知り合い、三、四か月で楽々と猫語をマスターします。
やがて「私」は猫都に赴き、大蝎の息子の小蝎(シャオシエ)や外国人、公使夫人らと触れ合い、様々な知見を得ます。しかし、そのうちに戦争が勃発し、猫国は滅んでしまいます。「私」はその後、フランスの探検機に出会い、何の苦もなく地球に帰還します。
ユーモア小説、リアリズム小説、抗日をテーマにした小説、戯曲など様々なタイプの作品を遺した老舎ですが、恐らく唯一のSFがこの『猫城記』です。
ただ、これをSFに分類するのは少々無理があるような気もします。主人公が火星なんかを訪れてしまったがために「五十年前に書かれたヘンテコな中国のSF」などといわれ、不気味なカバーイラストで飾られ、サンリオSF文庫の一員に加えられましたが、老舎にサイエンスフィクションを書くつもりなどありませんでした。
では、なぜ老舎は『猫城記』の舞台として、火星を選んだのでしょうか。
「私は如何にして『猫城記』を書いたか」のなかで老舎は、H・G・ウェルズの『月世界最初の人間』(1901)の名をあげていますが、それとともに『宇宙戦争』(1897)も参考にしたのではないでしょうか。もし、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』(1932)を読んだ後だったら、あるいは舞台を未来に設定していたかも知れません。
いずれにしても、火星という場所に大した意味はなさそうに思えます。
ちなみに、この頃の火星は、宇宙人のパラダイスでした。『宇宙人フライデー』のときにも述べたように「火星には生命体が存在しない」と人々が確信したのは一九六〇年代のマリナー計画以後でしょう。それまでは「ひょっとしたら、火星人がいるかも」と思い込んでいた人だって少なからずいたはずです。
つまり、書きようによっては、案外と真面目に受け取られていたかも知れないのです。
けれども、『猫城記』の科学知識の部分に関しては、シラノ・ド・ベルジュラックの『日月両世界旅行記』(1656、1662)や、ジュール・ヴェルヌの『月世界旅行』(1865)と『月世界へ行く』(1870)と同様、無邪気な空想のレベルを抜け出していません(いや、それらより遥かに劣る。そもそも科学的な説明はほとんどない)。
このことからも、老舎はSFではなく、ディストピア小説を書くつもりだったことが分かるでしょう。諷刺を目的とした場合、余りにリアルな設定は自分の身を危うくしますから……。
いや、しかし、荒唐無稽にもほどがあります。特に、猫国の歴史や制度に関する設定はいい加減すぎて、呆れるのを通り越し、怒りさえわいてきます。こんなものはユーモアでも何でもない。いきあたりばったりに出鱈目を並べただけです。SF用語を使用すると、センスオブワンダーがまるで足りません。
その上、肝腎の諷刺も機能しているとはいいがたい。
迷葉という麻薬にも食物にもなる重要な葉は、清を蝕んだ阿片を指し、猫国(中国)に大きな影響力を持つ外国(人)は、列強を指しているようですが、猫国人は、粗野で品格がなく混沌としています。
他方、外国人は、誠実で進歩的。ただし、猫国を滅ぼしたチビの外国人(恐らく日本人)は別(「私の知っている人間の中でいちばん残忍だった」とある)。その図式が露骨すぎて、皮肉以前に、まるで芸のない太鼓持ちのようです。
祖国を憂える気持ちや危機感は伝わってきますが、それを表現する方法として火星にディストピアを創造したのは失敗だったといわざるを得ません。老舎本人も認めているとおり、批判ばかりで、解決策を明示できなかった点にも不満が残ります。
それにしても、これがあの素晴らしい『駱駝祥子』を書いたのと同じ人物の手による小説なのでしょうか(老舎自身「私の十冊ほどの長編小説のなかで『猫城記』はいちばん〝パッとしない〟ものである」などと述べている。そういえば、莫言も自作を貶していたけど、それって中国人の癖なのだろうか)。
「猫」で失敗したからこそ、「駱駝」の質が向上したともいえますが、余りの貧弱さに悲しくなります。おまけに、訳文がまともな日本語になっておらず、全体の三分の一くらいは、何をいいいたいのか、さっぱり分かりません……。
って、全然褒めてないですね。苦し紛れですが、最後に、笑えた皮肉をひとつ。
『駱駝祥子』には
「(わが民族は)殺されることも得意だが、人殺しを見物することも嫌いではない。(中略)この連中の胸中には是非善悪、理非曲直のわきまえはない。彼らは必死に礼教にしがみついて人から文明人と呼んでもらいたがっているくせに、一方では、子供が子犬をなぶり殺しにするように残虐に、あっけらかんと、自分たちの同類を斬りきざむのを好んでいる」と書かれていました。
それが『猫城記』では、こんな具合。
「明るい中国、偉大な中国、残忍なこともなく、むごたらしい刑罰もなく、死体を食うタカもいない」
『猫城記』稲葉昭二訳、サンリオSF文庫、一九八〇
サンリオSF文庫、サンリオ文庫
→『マイロン』ゴア・ヴィダル
→『どこまで行けばお茶の時間』アンソニー・バージェス
→『深き森は悪魔のにおい』キリル・ボンフィリオリ
→『エバは猫の中』
→『サンディエゴ・ライトフット・スー』トム・リーミイ
→『ラーオ博士のサーカス』チャールズ・G・フィニー
→『生ける屍』ピーター・ディキンスン
→『ジュリアとバズーカ』アンナ・カヴァン
→『冬の子供たち』マイクル・コニイ
→『アルクトゥールスへの旅』デイヴィッド・リンゼイ
→『旅に出る時ほほえみを』ナターリヤ・ソコローワ
→『蛾』ロザリンド・アッシュ
→『浴槽で発見された手記』スタニスワフ・レム
→『2018年キング・コング・ブルース』サム・J・ルンドヴァル
→『熱い太陽、深海魚』ミシェル・ジュリ
→『パステル都市』M・ジョン・ハリスン
→『生存者の回想』ドリス・レッシング
→『マラキア・タペストリ』ブライアン・W・オールディス
→『この狂乱するサーカス』ピエール・プロ
→『バドティーズ大先生のラブ・コーラス』ウィリアム・コツウィンクル
→『どこからなりとも月にひとつの卵』マーガレット・セントクレア
→『ジョン・コリア奇談集』ジョン・コリア
→『コスミック・レイプ』シオドア・スタージョン
→『この世の王国』アレホ・カルペンティエル
→『飛行する少年』ディディエ・マルタン
→『ドロシアの虎』キット・リード
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