読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『真夜中の子供たち』サルマン・ラシュディ

Midnight's Children(1981)Salman Rushdie

 サルマン・ラシュディの『真夜中の子供たち』(写真)は「ブッカー賞のなかのブッカー賞(Booker of Bookers)」に選ばれた名作にもかかわらず、日本ではほとんど評判にならず、文庫化もされず、現在、品切れ中です。ハードカバー上下巻の海外文学なんて余程の話題作でもなければ、そうそう売れるもんでもないのでしょうね(とはいえ、僕が持っているのは発行一か月半後の三刷だから、当時それなりに勢いはあった)。

 しかし、話題といえば『真夜中の子供たち』の翌年に日本で出版された『悪魔の詩』は、訳者が殺害される事件が起こり、大いに世間を騒がせました。
 実をいうと、小心者の僕は、今に至るまで『悪魔の詩』を読めていません。ファトワーは永遠に撤回されないというし、読んでいるところをみられたら襲われるかも知れないと思うと恐ろしくて……。そういう人が多いのか、こちらも売れたという話は聞きません。

 それはさておき、『真夜中の子供たち』は、インド版『百年の孤独』だとか、アジアのマジックリアリズムだとかいわれますが、身も蓋もないいい方をすると、インド版『ブリキの太鼓』です。
 両者とも「三部構成」「激動の時代を舞台に小市民の人生を自伝的に描く」「戦争批判」「主人公は不思議な力を持つ」「三十歳頃に生涯を振り返る」「全体的にグロテスクさが際立つ」といった共通点があります。

 一九四七年八月十五日、インド独立の日(パキスタンは前日に独立している)の真夜中(零時から一時)に生まれた子どもたちには特殊な能力が備わっていました。特に、時報とともに誕生したサリーム・シナイは能力が高く、他人の思考を受信することができます。
 独立後に戦争を繰り返すインド・パキスタンバングラデシュを行き来しながら成長するサリームは、国家による大きな渦に巻き込まれてゆきます。

 第一巻は、サリームの祖父の若い頃からサリーム誕生までの一族の歴史が語られます。
 大河小説の場合、戦争や革命などの史実に、市民の生活を絡めてゆくものが多いのですが、第一巻ではインドの歴史が前面に出てきません。例えば、映画をみているとスクリーンの前に支配人が現れ「マハトマが暗殺されました」と伝えたり、新聞を切り抜いて告発文を作るとき、元となった記事をさり気なく記載するといった程度です。
 インドや英国の人にとっては自明のことでも、ヒンドゥー教徒ムスリムの争い、イギリスとの関係、第二次世界大戦での立場などが具体的に記載されないと、ついてゆきにくいのも確かです。そのせいか、なかなか読書が進みません。

 ところが、第一巻の最後に、驚愕の事実が明らかにされます。ネタバレになるため書きませんが、きっと「ここまで読んできた物語は一体何だったんだ!」と叫びたくなるでしょう。
「独立と同時に生まれた子どもたちは、特定の両親の子ではなく、インドの子どもだ」という理屈は分かるものの、ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』のように生まれる前のことを熟知している人物でしか使えない、人を喰った仕掛けであることは間違いありません。
 以下、この設定をバラせないため、感想文が少々苦しくなる点をご了承ください。

 さて、第二巻の半ばになってようやくサリームの特殊能力と、真夜中の子供たちと呼ばれる能力者たちが紹介されます。
 零時に近く生まれた者ほど優れた能力を持ち、逆に一時に近いと単なる奇形になってしまいます。空を飛べる者、時間を移動できる者などがいるなか、時報と同時に誕生したサリームは、全五百八十一人の子どもたちと同時に交信できるフォーラムを脳内に作ります。これは、パソコン通信やインターネットコミュニティのようなもので、随分と時代を先取りしていたことが分かります。
 しかも、サリームは匿名性を重視し、フォーラムでの発言者を明らかにせず、議論を進めてゆきます。

 ただし、サリームの力は、物語を大きく動かすのではなく、一人称なのに全知全能の神のような語りを可能にするために使われているのがやや不満です。
 サリームが、生まれる前のできごとや、不在の場面を描写できるのはこの能力のお陰ですが、脳内フォーラムまで発展させたにもかかわらず、離れた場所にいる子どもたちが協力して事件を解決するといった展開はみられません。

 なお、この能力は個人のものというより、インドという国が持つ力のようです。というのも、サリームがパキスタンに移住すると、特殊能力は発揮できなくなるからです。
 ちなみに、シナイ家は分離独立後もインドに暮らすムスリムです。このことから宗教ではなく、国家が重要であることが分かります(とはいえ、鼻の手術で、この力はなくなってしまうので解釈が難しいが……)。

 実際、サリームの成長に伴い、インド・パキスタン戦争や中印戦争についての記述が増えてゆきます。
 恐らく、これはラシュディ自身の記憶や体験と連動しているためでしょう。ラシュディとサリームは同じ歳ですし、自伝の要素が濃くなるのは当然といえます(ラシュディ自身は、自伝的なキャラクターであることを否定している)。
 ただし、サリームと異なり、ラシュディは第二次印パ戦争で祖国を敵に回すことができず、英国に留学してしまいました。

 第二巻のクライマックスでは、その第二次印パ戦争が描かれます。
 そして、ここにも衝撃的なできごとが待っています。第一巻のラストと同様、すべてがリセットされてしまうような大胆な展開ですが、興ざめになるため、やはり書くことができません。

 両軍の弾薬庫が空になったため終結したといわれる第二次印パ戦争の六年後、今度は東パキスタンバングラデシュ)の独立をきっかけに第三次印パ戦争が起こります。
 第三巻は、手術によって犬並みの嗅覚を身につけたサリームが、追跡情報活動のための犬小隊(Canine Unit for Tracking and Inteligence Activities: CUTIA)という部隊に所属し、バングラデシュに向かうところから始まります。
 政治的な記述はますます増え、特にインディラ・ガンディーに対しては容赦ない攻撃が続けられます。と思ったら、実は彼女、サリームがときどき話題にしていた「ある人物」のことだったのです。実在の人物は、フィクション内での重要度が低いと考えていただけに、これもちょっとした驚きです。

 さて、ここまでくると読者の興味は、サリームと同時に生まれたシヴァ(バトル漫画の主人公のように戦闘力に長けている)との邂逅に絞られます。
 今まで脳内フォーラムでしかやり取りをしなかった運命のふたりに、どのような出会いが待っているのでしょうか。

 結論からいうと、「未亡人」の忠実な部下であるシヴァが勝者で、政治犯として逮捕されるサリームが犠牲者という構図が明らかにされます。
 インドという国を理解するには、このふたりの関係を考えなければいけないとラシュディは主張します。つまり、何度かの戦争や核実験はすべて、一市民であるサリームを痛めつけるものだったという意味が、ここへきて鮮明になるのです。
 一方、唯一の勝ち組と思われたシヴァも、使い勝手のよい駒でしかなかったことが分かります。

 つまり、ネルー=ガンディー王朝は、国家とともに誕生した真夜中の子どもたちを虐げ、去勢し、素晴らしい能力を奪うことしかしませんでした。そんな政府に、期待できるものなど何もありません。
 しかし、国を捨て、宗教を捨てたラシュディは、大いに嘆くとともに、真夜中の子どもたち第二世代に希望を託しているようにも読めます。
 それから四十年が経った現在、果たして彼の故郷は少しでも理想に近づいているでしょうか。

 なお、第一巻の最後で明かされた事実は、第三巻で皮肉なオチがつきます。
 僕は、途中で仕掛けに気づきましたが、それでも十分に面白いので、吃驚する小説が好きな方はぜひどうぞ。

『真夜中の子供たち』〈上〉〈下〉寺門泰彦訳、早川書房、一九八九