読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ナチュラル』バーナード・マラマッド

The Natural(1952)Bernard Malamud

 二〇一四年のプロ野球は、社会人を経てプロ入りした遅咲きのルーキーが話題になっています。
 ちなみに、プロ野球史上、最も遅いデビューは、浜崎真二の四十五歳。彼は、一九四七年、阪急ブレーブスに監督兼選手として入団しました。
 メジャーリーグをみると、ニグロリーグで活躍していたサチェル・ペイジが、クリーヴランド・インディアンスに入団したのが四十二歳のとき(一九四八年)でした(史上三位は、高橋建の四十歳)。

 それに比べると、三十四歳でデビューした『ナチュラル』の主人公ロイ・ハブズは、まだまだ若いといえるでしょう(江夏豊がMLBに挑戦したのが三十六歳のとき。当時、メチャメチャおっさんに感じられたが、今考えると若い!)。
 僕も来年辺りドラフトにかかるかも知れませんので、心の準備だけはしておこうと思います。

 さて、今回は、書名をどう記載するか迷いました。
 この作品、角川文庫からは『汚れた白球 ―自然の大器』、ハヤカワ文庫からは『奇跡のルーキー』というタイトルで出版されているからです(写真)。

 とはいえ、一九八四年にロバート・レッドフォード主演の映画が公開された後は『ナチュラル』(※1)のタイトルの方が一般的になりました。実際、両文庫も映画公開に合わせ、カバーにスティル写真を用い、『ナチュラル』という文字を加えています(※2)。また、原題にも忠実であることから、ここではそちらを採用することにします(※3)。

 才能あふれる十九歳の投手ロイ・ハブズは、シカゴ・カブスの入団テストを受けにゆく途中、アスリートを狙う謎の女に銃で撃たれてしまいます。
 それから十五年後、三十四歳になったロイはニューヨーク・ナイツ(※4)に打者として入団します。手作りのバット「ワンダーボーイ」を用いて打ちまくるロイでしたが、シーズンの終盤、このまま野球を続けると突然死する危険があることを知らされます。
 やがて、リーグ優勝を決めるプレイオフが迫ってきて、ロイは八百長を持ちかけられます。

 バーナード・マラマッドといえば、以前取り上げた『アシスタント』のように、ユダヤ人の小市民を主人公にした作品が多いのですが、これは処女長編だけあって、少々毛色が異なります。
 ロイは、ユダヤ人でもなければ、凡人でもありません。それどころか、野球の神に選ばれし天才(ナチュラル)なのです。
 作品のトーンも、後の多くの長短編のような重苦しさはなく、庶民には手の届かない華やかな世界でのできごとが綴られます。

 けれど、表面の薄皮を剥くと、忽ちにして、心に傷を負った孤独な人々の姿がみえるでしょう。
 ロイは、野球に関しては素晴らしい才能を持っていますが、私生活では何となくツイていない男という雰囲気が漂っています。不運に見舞われデビューが遅れたのもそうですし、活躍しつつ給料が上がらなかったり、好きな女には相手にされなかったり、賭けには負けてしまったり、挙げ句の果ては「野球を続ければ死ぬ」と医師に宣告されてしまうのです。
 ロイの出自や過去は断片的に語られるため、はっきりとしたことは分かりませんが、恵まれた人生を送ってこなかったことは明白です。

 それは、彼以外の登場人物も同様です。
 ロイの球を受けて死んでしまうスカウトのサム、チームを優勝させることだけを考えながら、到頭果たせなかった監督のパプ、試合中にフェンスにぶつかり命を落とす強打者のバンプ、その恋人のメイ、ロイのファンで強姦されたときの子を産んだアイリス、そして、狂気の女ハリエット……。いずれも幸福とは縁遠い者ばかりです。
 彼らはスラムに住んでいるわけでも、世間から虐げられているわけでも、貧しくもないけれど、人生に疲れ切っているようにみえてしまいます。

 なお、野球に関してですが、マラマッドは余り詳しくないのか、あっさり十七連勝させてみたり、一試合にひとりで四本のホームランを打たせてみたりと陳腐な展開が多いのがご愛嬌。
 そもそも、実在の人物や事件を数多く取り入れているのも、野球が得意じゃないせいではないでしょうか。例えば、ハリエットは、フィリーズのエディ・ウェイクスをライフルで撃ったルース・アン・ステインヘイゲンがモデルですし、病気の少年にホームランを打つと約束し、実際に打ったベーブ・ルースのエピソードや、ブラックソックス事件が、生に近い形で取り入れられています。

 極めつけは、この本が発行された前年、一九五一年のナショナルリーグのプレイオフです(ジャイアンツのボビー・トムソンがサヨナラホームランを放って決着した)。
 これはドン・デリーロの『アンダーワールド』や、デイヴィッド・リッツの『ドジャース、ブルックリンに還る』でも取り上げられた歴史的事件で、『ナチュラル』でも物語のクライマックスに使用されています。
 ところが、この小説では、これ以上ないくらい皮肉な結果が用意されているのです。

 野球が大好きで、すべてを賭けてきたロイは、その野球に裏切られ、どん底に落ちてしまいます。そのときの絶望感といったら、気が滅入るくらい救いのないマラマッドの小説のなかでも一、二を争うのではないでしょうか。
 勿論、だからこそ、凡百のエンタメ小説にはない深みが生まれるわけです。
 八百長を持ちかけてきた賭博師を裏切り、サヨナラホームランを打つなんて結末だったら、その後のマラマッドはなかったかも知れません。

※1:僕は、『ナチュラル』を高校の映画鑑賞会で、関内の映画館にみにいった。その際、ラストシーンが途中に挟まれ、また元に戻るという映写上のミスがあり、ストーリーがよく分からなくなるという不幸なできごとがあった。

※2:映画『リアル・スティール』が公開されたとき、ハヤカワ文庫と角川文庫からリチャード・マシスンの『リアル・スティール』という日本オリジナルの短編集がほぼ同時に刊行された。二冊は表題作のみ重複するが、ほかの短編は被らなかった。

※3:といいつつ、個人的には、主に英語の原題をそのままカタカナにしたタイトルは好きではない(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』とか『グレート・ギャツビー』とか)。意訳でもいいから日本語にすべきと考えているので『奇跡のルーキー』でも『汚れた白球』でも大いに結構。
 ただし、『汚れた白球』の新カバーは、表紙も背も、完全に「ナチュラル」というタイトルになっている。表紙の下部に、小さく「原題=汚れた白球」と書かれているが、これは既に持っている人が間違えて買わないためと思われる。でも、「原題」というのは変で、正しくは「元々の邦題」だろう。
 角川文庫は、この手をよく使う。ルイス・ブニュエルの映画『欲望のあいまいな対象』のときも、「原題=私の体に悪魔がいる」(ジュリアン・デュヴィヴィエが映画化したときの邦題)としたが、これも「元々の邦題」という意味である。ピエール・ルイスの原作のタイトルは『La femme et le Pantin』なので、『女と人形』とした方が正確である。
 また、ダルトン・トランボの『ジョニーが銃をとる日』も、映画化に合わせてカバーのみ『ジョニーは戦場へ行った』に変更された。このときは「原作 ジョニーが銃をとる日」と書かれていた。こちらの原題は『Johnny Got His Gun』なので、まあ、許せるか。

※4:モデルは、ニューヨーク・ジャイアンツ


『汚れた白球 ―自然の大器』鈴木武樹訳、角川文庫、一九七〇
『奇跡のルーキー』真野明裕訳、ハヤカワ文庫、一九八四


→『アシスタント』バーナード・マラマッド

野球小説
→『ユニヴァーサル野球協会ロバート・クーヴァー
→『12人の指名打者ジェイムズ・サーバーポール・ギャリコほか
→『野球殺人事件』田島莉茉子
→『メジャー・リーグのうぬぼれルーキーリング・ラードナー
→『ドジャース、ブルックリンに還る』デイヴィッド・リッツ
→『シド・フィンチの奇妙な事件ジョージ・プリンプトン
→『プレーボール! 2002年』ロバート・ブラウン
→『アイオワ野球連盟』W・P・キンセラ
→『赤毛のサウスポー』ポール・R・ロスワイラー
→『プリティ・リーグ』サラ・ギルバート
→『スーパールーキー』ポール・R・ロスワイラー

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