読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『劣等優良児』P・G・ウッドハウス

The Coming of Bill(1919)P. G. Wodehouse

 二〇一八年、美智子さまが、皇后での最後の誕生日において「ジーヴスも二、三冊待機しています」とおっしゃられました。
 それをきっかけに、突如としてP・G・ウッドハウスブームが巻き起こりました。美智子さまのお言葉を記した帯が既刊本に巻かれ、書店に平積みされた夢のような光景を記憶されている方も多いことでしょう。

 これによって、「ジーヴス」シリーズを十四冊刊行している国書刊行会が潤ったのか、しばらく新訳の途絶えていたウッドハウスを復活させてくれました。二〇二一年から刊行された新叢書「ウッドハウス名作選」がそれです。
 残念ながら三巻で終了のようですが、「ジーヴス」シリーズ(ウッドハウス・コレクション)も当初三巻の予定だったのが五巻になり、七巻になり、ついには全作が訳されたという経緯があります。また、その後も「ウッドハウススペシャル」「よりぬきウッドハウス」と新しい叢書が続いたので、いずれ別の形で再開されるかも知れません。

 また、二〇二二年四月には、論創社から「ブランディングズ城」シリーズの第一作『ブランディングズ城のスカラベ騒動』が刊行されました。
 これで「ブランディングズ城」の未訳長編は六作(「フレッド叔父」「新聞記者スミス」『A Damsel in Distress』も加えると残り十一作)となります。今後、このシリーズがひとつの出版社から続けて出版される可能性は低そうですが、遺作となった『Sunset at Blandings』(未完)まで完走してもらえたら望外の幸せです。
 日本における、新たなウッドハウス受容を期待して待ちたいと思います。

 ところで、「ウッドハウス名作選」の一冊『アーチー若気の至り』の原書刊行年は一九二一年で、翻訳まで実に百一年かかったことになります。
 他方、一九一九年に刊行された『劣等優良児』(写真)は、太平洋戦争に突入する直前の一九四〇年に和訳されています。訳本の刊行日の差は八十年以上もあります。

 翻訳は、現在使われている言葉を使うべきだと考える人がいます。死語となった単語を用いたり、大時代的な言葉遣いでは現代人の心を捉えることはできないという主張です。
 また、翻訳の技術、方法論も進歩していますし、作品を理解するための知識も蓄積されているはずなので、訳の質という点では現代の翻訳の方が優れている場合が多いでしょう。

 一方、古い翻訳は、その時代を写しているといえます。原書刊行からときを経ず訳されたものは、場所は違えど時代の空気を共有しているはずです。『あしながおじさん』のジュディが、今の若者言葉で手紙を書いていたら違和感を覚えるのではないでしょうか。
 古い訳本には、誤訳も、すっ飛ばしも、訳者が勝手に改変した部分も、差別意識もあるでしょうが、それをも楽しんでしまう心の余裕さえあれば、独特の味わいを堪能できると思います。

 というわけで、今回は『アーチー若気の至り』と『劣等優良児』を続けて読んでみました。
 実をいうと、この二作は発行年以外にも似ている部分が多くあります。例えば、「ニューヨークに住む英国人が主人公」「主人公が妻帯者(ウッドハウスにしては珍しい)」「退役軍人や優生学など当時の話題を取り入れている」などなど。
 全く正反対の点もありますが、それについては後述します。

『アーチー若気の至り』の訳者である森村たまきは、国書刊行会ウッドハウスを一貫して訳している人です。文学畑出身ではないのに古典の素養もあり、ウッドハウスに関する知識の量も相俟って、安心して読むことができます(※1)。国書刊行会ウッドハウスが瑞々しいのは翻訳者の力に依るでしょう。
 ただし、翻訳の質と笑いは別ものなのがユーモア小説の難しいところです。
 森村訳が決して笑えないわけではないのですが、やや上品すぎるきらいがあり、ゲラゲラの量では創土社(古賀正義訳)や文藝春秋岩永正勝小山太一訳)のウッドハウスに分がある気がします(同様に、古賀らの翻訳の質が落ちるといいたいわけでもない)。

 それはともかく、きちんと整理された現代の訳文は、スッと頭に入ってきます。
『アーチー若気の至り』でいうと、オークションで身内が競り合い、値を釣り上げてしまう場面はスピード感が大切です。実は、それがある人物の策略で、さらにもう一段オチがあり(当然、前半に伏線もある)、アーチーの義父がプツンと切れるシーンで最高潮に達します。これなどは、淀みのない流れによって笑いが起こる好例ではないでしょうか。

 原書の書かれた時代を忘れさせないようにするためか、義父の科白の語尾を「〜じゃ」にする反面、「上から目線」「甘熟(完熟)フルーティー(原文の表記揺れママ)」「インスパイアした」といった今風の表現を用いることでバランスを取っているようにも感じました。

『劣等優良児』を訳した長谷川修二(楢原茂二)は、主に推理小説の翻訳家で、ウッドハウスもいくつか訳しています。
 長谷川は、「新青年」の編集部にいた一九三〇年、渡辺温とともに谷崎潤一郎宅へ原稿の催促にゆき、帰りに乗っていたタクシーが貨物列車と衝突する事故に見舞われました。渡辺は亡くなりましたが、長谷川は一命を取り留めています。

 優生学を盲信しているローラ・デレーン・ポーターは、その観点から姪のルース・バニスターの縁談をぶち壊します。代わってみつけてきたのが長身で逞しい体を持つ画家のカーク・ウィンフィールドでした。
 しかし、ルースの父親で、バニスター父子商会の社長ジョンは、その結婚に反対します。駆け落ち同然で結婚したふたりは、ビルという子どもを授かります。しかし、三人の暮らしは決して楽ではありませんでした。

 ウッドハウスの小説の主人公は、金に困ることなく、のらくらと生きてゆく者が多いのですが、カークの場合はちょっと違います。
 両親が遺してくれた株が暴落し、年に五千ドルの配当がなくなります。絵は全く売れず、ルースの父親は孫のビルが生まれたにもかかわらず助け舟を出してくれず、友人たちもポーター夫人も寄りつかなくなります。カークは一攫千金を狙い、コロンビアに金を掘りにいったものの、熱病に罹患し、親友が死に、自身は空手で戻ってくるといった具合です。
 しかも、カークは真面目に絵の勉強をせず、能天気に生きてきたことを悔やむのです。この辺りが、ウッドハウスには珍しい「コミックノベルではない」作品といわれる所以でしょう。この点は、前述の『アーチー若気の至り』と全く異なります。

 さて、カークが南米にいっている間にルースの父親が亡くなり、莫大な遺産が転がり込みます。カークがニューヨークに戻ってくると、生活はすっかり成金のそれになっていました。おまけに、ポーター夫人が再び現れ、息子のビルは無菌培養されている始末。
 貧しくとも家族水入らずのつましく暮らしが好きだったカークは、パーティ三昧で、子どもの面倒をみようとしないルースを不満に感じています。一方、ルースは、社交界に背を向けて、アトリエに籠もり絵を描き続けるカークに満足しません。かくして、ふたりはいがみ合い、別居することになります……。

 結末までは書きませんが、極めて真っ当な展開な上、教訓めいていて、お気楽なウッドハウスっぽくありません(※2)。とはいえ、ごく普通の、真面目な小説が「異色作」になってしまうところがウッドハウスの凄さともいえます。
 面白いけれど、現代の読者が求めているのはこれではない気がするので、今後新訳が出ることは想像しにくい。読みたい方は古書を探してみるとよいでしょう。

 なお、翻訳に関してですが、「皆なそろつて、ス・フ入りよ」「ベーリーは『若大将』を『若大』と略されるのが大嫌ひだつた」「自分で志願して松澤村(精神病院のこと)へ行きますけどね」「相手の力を利用して倒すのが力士の上乗である」「油屋さん(涎掛けのこと)をかけて行くの?」といった、日本独自の隠語や流行り言葉がみられます。
 今読むと、こういうのが堪らなく楽しいんですよね(こちらを参照)

※1:ただし、野球に関する部分は、かなり怪しくて、「ピッチャーボックス」なんて言葉も出てくる。

※2:改造社の『世界滑稽名作集』や、富士書店の『ウッドハウス短編集』に収録されているような、初期の人情ものに近いといえる。昭和初期には、ウッドハウスのその手の作品が好まれたのだろうか。


『劣等優良兒』長谷川修二訳、東成社、一九四〇

→『ゴルフ人生』『ゴルきちの心情』『P・G・ウッドハウスの笑うゴルファー』P・G・ウッドハウス
→『ヒヨコ天国』P・G・ウッドハウス
→『笑ガス』P・G・ウッドハウス