読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ハーツォグ』ソール・ベロー

Herzog(1964)Saul Bellow

 恒例(?)の夏休みの読書感想文ですが、僕の感想は中高生レベルなので、よろしければ夏休みの宿題の参考にどうぞ。

 さて、宇宙人に「小説って一体、何だ。ひとつ見本をみせてくれよ」といわれたら、僕は迷わずソール・ベローを紹介するでしょう。
 ベローは、ノーベル文学賞をはじめ、ピューリッツァー賞や全米図書賞(三度)を受賞している二十世紀後半のアメリカ文学界の巨匠。「知性派」「正統派」などという言葉がこれほど似合う作家もいないんじゃないかしらん。
 日本では余り人気がないみたいですが、僕にとっては、とにかく「小説を読んでいる」って気にさせてくれる作家です。

 さて、今回は『ハーツォグ』を取り上げてみます。
 主人公のモーゼス・ハーツォグは、四十代後半の元大学教授。自身の研究分野(思想史)で名声を得、二度目の結婚で若く美しい妻も得た。ところが、その妻に不倫された上、離婚を承諾させられてしまう。しかも、相手はハーツォグの友人で、就職や住居の世話を焼いてやった人物だった。
 そこから精神に変調を来し、友人、知人、家族、政治家、著名人、果ては死人にまで手紙を書きまくる、という話。

 取り立てて事件が起こるわけではなく、手紙、回想、モノローグを駆使して、ひたすら主人公の内面へ内面へと潜り込んでゆきます。ま、ベローの小説の多くは、知的な主人公(ユダヤ人)の内省が読みどころですから、適度な脱線を楽しみつつ、当時のアメリカ社会が抱えていた問題、「自然と文明」「生(性)と死」の対比、あるいは自伝的な要素などについて、ぼんやり考えながら読み進めます。

 ……なんて書くと、やたらと小難しい小説と思われるかも知れませんが、実はモーゼスって意外と俗っぽく、ベローの筆致もコミカルとさえいえます。
 嫉妬心は半端じゃない癖に、自分にも愛人がいて、そっちと上手くいった後は、ほかのことはどうでもよくなったり、妻に引き取られた娘が虐待されているみたいなんて噂を聞くと、いても立ってもいられなくなり、拳銃を持って元妻の家のまわりをうろついたり、娘にいいところをみせようとしたのに、交通事故を起こし、挙げ句に銃の不法所持で捕まったりといった具合。
 偉そうなことをいう割に、何だか情けないところが、同じ中年の男として、大いに感情移入できます。モーゼスは、社会的な地位も名誉もあるし、男前で女にももてるけど、自分の居場所がどこにもない。で、手紙を書くことによって、自己を取り戻そうと足掻くわけです。
 投函しない手紙とは日記と同様、内省の手段であり、憎悪や怒りの捌け口ともなります。ただ、彼の場合は、手紙で世界を埋め尽くすなんてことをいいますから、他人からみれば狂気そのものであり、モーゼス自身も、これをやめない限り、精神が病んでいると思われることを承知しています。それでも、移動中だろうと、鉄格子のなかだろうと、手紙を書き続ける。

 これを自分に置き換えると、誰も読まないブログをせっせと更新したり、携帯からツイッターでつぶやくようなものでしょうか。いろいろと理屈をつけて正当化していますが、やめてしまっても別にどうということはないのに、やめられない(ツイッターは一時やめて、実際どうということはなかった)。

 さて、モーゼスは、最終章で、全てを捨て田園での隠遁生活を選択した途端、手紙を書くという行為をあっさりやめてしまいます。何も望まず、運命のまま生き、それで満足できることを悟った彼にとって、手紙は最早呪いでしかないからです。
 要するに、思索ではなく、自然による再生を目指すわけですが、その辺も実に羨ましい。僕も、定年退職したら、海の近くで何もせずに暮らしたいなあと考えていますが、そんな贅沢が実現するとは思えないし……。
 あ、こんなんじゃ、とても宿題には使えませんね。済みませんでした。

『ハーツォグ』宇野利泰訳、早川書房、一九七〇