読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『歯とスパイ』ジョルジョ・プレスブルゲル

Denti e spie(1993)Giorgio Pressburger

 ジョルジョ・プレスブルゲルはハンガリー出身なので、本名はPressburger Györgyと、姓が先になります。
 彼はハンガリー動乱(一九五六年)の際、イタリアに亡命します。ジョルジョは双子で、最初のうちは兄弟のニコラと共同で作品を発表していましたが、ニコラが若くして亡くなったため、その後は単独で執筆をすることになりました。
 ジョルジョは後年、ハンガリーに戻り、イタリア文化研究所の所長になったそうです。

 彼の代表作といえる『歯とスパイ』(写真)は、歯に焦点を当てた奇妙な小説です。
 前々回に取り上げた『おしりに口づけを』は南太平洋の「肛門小説」で、今回は東欧の「歯小説」というわけです。両者は体の部位に徹底的にこだわった文学という共通点があります。

『歯とスパイ』は、主にスパイを生業としていた主人公が、章ごとに自分の三十二本の歯すべてのエピソードを語り(いくつかの歯はまとめられるし、歯茎や入れ歯の章もあるので実際は二十八章)、それが概ね年代順に並べられています。並び替えたのは「架空の編集者」という設定であり、読者は適当な項目から読んでも構わないし、右上第三大臼歯から歯列弓の順に読んでも構わないとされています。
 といっても、実際は時系列に沿って読み進めるのが懸命でしょう。

 主人公は、S・Gというイニシャルと、妻子がいて、スパイ活動をしているらしいことが明かされるのみで、具体的なことはほとんど分かりません。過去のできごとや関係者、スパイの任務に関する説明も曖昧です。
 また、スパイとはいえ地味な活動が多いため、ハラハラする場面は余りありません(帯に「この歯が痛むとき必ず、要人が暗殺される!」と書かれているが、飽くまでこれはひとつの章だけで終わる話なので誤解なきよう)。
 スパイ小説といっても007やジョージ・スマイリーのようなものとは全く異なり、冴えないスパイを主人公にしたユーモア小説といった感じです。W・サマセット・モームの連作短編『英国諜報員アシェンデン』に雰囲気が少し似ているかも知れません。

 いや、実をいうと、主人公は職を転々としてきたため、スパイという職業は人生のごく一部でしかないのです。では、なぜ「スパイ」がタイトルに入っているかというと、原題の『Denti e spie』は「ie」がふたつ並び、片方は伸びて、片方は詰まる発音となり、リズムがあるからだそうです。
 というわけで、「歯」は大事ですが、「スパイ」の方は大して重要ではありません。

 派手なできごとが起こらない代わりに、大学で哲学を学んだ主人公は独特の考えを持っていて、それが読みどころといえます。
 また、常に不倫をしている主人公の恋愛感やセックス感もなかなか面白い。彼は、妻に対して「きみに話したその女性と、わたしは夜も昼も一緒に暮らさなければならない。行けるところまで行きつくまでは、きみに邪魔されるわけにはいかないんだ。どのみち、長くはつづくまい。彼女はしょせん本気ではないし、べつの男がいるからね。だが、とにかくいまは、彼女のところへ行かせてくれ」なんて科白を吐けるくらい不義のプロフェッショナルなのです。
 ひとつの章も短いことから、ある意味、哲学や宗教、性愛に関する随筆を読んでいるような錯覚に陥るときもあります。

 加えて、歯に関するあらゆること、例えば歯痛の苦しみ、永久歯が生えることが通過儀礼になる、個性的な歯科医と様々な治療法(機能重視、みてくれが大事、マッドデンティスト、美人歯科医)などがぎっしりと盛り込んであるので、そちらも興味深く読めます。

 さらに、主人公の人生が平凡な反面、その背後に歴史的な事件(第二次世界大戦ハンガリー動乱ベトナム戦争ケネディ暗殺、ヨハネ・パウロ2世暗殺未遂事件など)を匂わせるという仕掛けがしてあります。
 ただし、それらは主人公の存在同様、固有名詞を用いず、ぼやかして書かれているのが特徴です。例えば、「男はもう生きることはない」という暗号でロシアの要人が息を引き取りますが、これはギリシャ語で「男」を意味するΑνδρας(アンドラス)に似た名前のユーリ・アンドロポフのことでしょうし、「三十三年前に絞首刑にされた首相」というのはソ連の侵攻に抵抗したナジ・イムレのことでしょう。ほかにも、血の伯爵夫人(バートリ・エルジェーベト)を思わせる女性が登場したりもします。
「歯」という小さくて個人的なものを前面に押し出しておきながら、血塗られた歴史を連想させるというのが、いかにも大国に翻弄されたハンガリーの作家という気がします。

『歯とスパイ』は、思(歯)想小説でもあるので、作者の出自や背景を知ることでより楽しめますが、そこまで興味を持てないという方は、ヘンテコなユーモア小説として読まれても十分満足できると思います。
 ただし、この本を読み終えると、果たして歯は非常に大事なのか、そうでもないのか分からなくなります。
 ちなみに僕は、十歳代の頃、ぶつけても殴られてもいないのに、上の前歯四本(SD1、SD3、SS1、SS3)の神経が次々に死に、すべて差し歯にした経験があります。高価なものにしたせいか人には気づかれないし、日常生活にも全く支障がない。その上、絶対に虫歯になりません。
 これって、どうなんでしょう。

『歯とスパイ』鈴木昭裕訳、河出書房新社、一九九七

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