読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『サラゴサ手稿』ヤン・ポトツキ

Manuscrit trouvé à Saragosse(1804,1805)Jan Potocki

 国書刊行会が「世界幻想文学体系」の一冊として、ヤン・ポトツキの『サラゴサ手稿』(写真)を刊行したのが一九八〇年。しかし、これは全訳ではなかったため、完訳が期待されました。
 二十年後、東京創元社の「創元ライブラリ」から全訳が刊行されるという噂が流れましたが、さらに二十年経った現在、実現はしていません(訳者の工藤幸雄は二〇〇八年に亡くなった)。

 そのせいか、『サラゴサ手稿』は中身よりも「完訳は本当に出るのか」の方が話題になることが多くなってしまいました。手つかずならともかく、訳稿は完成しているそうなので、つい期待してしまうのでしょう。
 半ば諦めつつも完訳を待つ理由は、勿論『サラゴサ手稿』が抜群に面白いからです。オカルトや幻想文学が好きな人はいうまでもなく、僕のような門外漢をも虜にする魅力を備えています。

 とはいえ、全訳が刊行されるとしたら最低でも全五巻で、価格は二万円を超えると思われます。今の時代、それほどの大著がどれくらい売れるかと考えると、出版社が二の足を踏んでもおかしくありません。
 何とも寂しい話です……。

 さて、『サラゴサ手稿』はフランス語によって六十六日まで書かれ、一八〇四年に第一冊(十日分)、一八〇五年に第二冊(三日分)が出版されました。これがポトツキの生前に刊行されたすべてです。
 日本語版は一日多い十四日まで収録されているので、生前の版に近いといえます。

 そもそも、フランス語版は原稿の一部が失われており、全体が刊行されたのは一八四七年にポーランド語に訳された版のみです。
 つまり、今後、日本で完訳版が出版されるとしたら、失われた原稿が発見されない限りポーランド語からの重訳ということになるでしょう。

サラゴサ手稿』は何重もの枠組みからなっており、一番外側は「スペイン独立戦争において、ナポレオン軍がサラゴサを包囲した際、ある士官が、めぼしいものが既に略奪された小館でスペイン語によって書かれた痛快無類の手稿をみつける。それをフランス語に訳したのが本書」という設定です。
 そして、本文の外枠は以下のとおり。

 怪物か盗賊が出ると噂されるシエラ・モレナ山脈を、若き親衛隊長アルフォンス・フォン・ヴォルデンが恐れもせず旅をします。途中で騾馬引きのモスキト、従卒のロペスが姿を消し、自身は廃墟となった宿に泊まることにします。そこにはムーア人の姉妹エミナとジベデがいて、いくつかの物語を聞かせてくれます。
 翌朝、目覚めたアルフォンスは、ベッドではなく、縛り首になったふたりの盗賊の間にいることに気づきます……。

 夜な夜な奇妙な話が語られる点は『千夜一夜物語』と同じです。しかし、ひとつの話が何夜にも亘る『千夜一夜物語』とは異なり、『サラゴサ手稿』は一晩に複数の物語が披露されます(話が続く場合もあるが、長くとも二日で終わる)。
 また、前者の語り手がシェヘラザードひとりなのに対して、後者はまるでリレーのように登場人物が次々に物語る形式です。それによって、主要人物の来歴が明らかになるという仕組みになっています。
 さらに、何代にも亘る一族の話だったり、作中作だったり、書物だったりと変幻自在の入れ子構造になっているため、飽きずにどんどん読めてしまいます。

 外枠の物語も、挿話に負けず劣らず面白い。魔物の仕業か、異教徒(イスラム教)のせいか、はたまた秘術によるものかは分かりませんが、アルフォンスは何度も同じところに戻ってきてしまったり、井戸から死んだはずの盗賊が現れアジトに招待されたりと奇妙なことばかり起こります。
 それらは現実なのか幻なのかすら分からず、ひょっとするとアルフォンスは最初に訪れた宿から一歩も外に出ていないかも知れないのです。

 また、エミナとジベデは役割こそ違えど、シェヘラザードとドニアザードに似ているので、彼女たちのファンも満足できると思います。
 貞操帯をつけてアルフォンスのベッドにやってきたり、ロザリオを捨てさせたり、他者からは縛り首にされた盗賊にみえたり、ジプシーの姉妹と似ていたりと、いかにも怪しげな姉妹にもかかわらず、美しくかつエロティックなせいか、魔物でも構わないという気持ちになってしまいます(十四日目まででは、残念ながら彼女たちの正体は分からない……)。

 このように、近代幻想文学の始祖であると同時に、今読んでも全く古びていない傑作なのですが、何といっても途中までしか読めないのが辛い……。当然ながら、何もかもが中途半端ですから、のめり込み度に比例してフラストレーションが溜まります。
千夜一夜物語』は、夜伽の後に夜の営みが待っていたせいか一日分の物語がやけに短い点が気になります。他方、『サラゴサ手稿』の一日は、孤独な夜の暇潰しにぴったりの分量です。これが六十六日分あったら、どれだけ嬉しいでしょう。

サラゴサ手稿』は長い間、品切れで、古書価格もそこそこするので、この本のファンは年々減っているはずです。完訳を出版してもらうには、僕ら古い人間がその魅力を訴え、若いファンを増やしてゆくしか道はないような気がします。
 果たして、死ぬまでに完訳を手にすることができるでしょうか。うーん……。

追記:二〇二二年九月より、岩波文庫から全訳が、新訳で出版されました。

サラゴサ手稿』世界幻想文学大系19、工藤幸雄訳、国書刊行会、一九八〇

千夜一夜物語』関連
→『エバ・ルーナ』『エバ・ルーナのお話イサベル・アジェンデ
→『夜物語パウル・ビーヘル
→『シェヘラザードの憂愁』ナギーブ・マフフーズ
→『船乗りサムボディ最後の船旅ジョン・バース
→『シンドバッドの海へ』ティム・セヴェリン
→『ヴァテック』ウィリアム・ベックフォード
→『アラビアン・ナイトメア』ロバート・アーウィン
→『宰相の二番目の娘』ロバート・F・ヤング
→『アラビアン・ナイトのチェスミステリー』レイモンド・スマリヤン

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