読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『シェヘラザードの憂愁 ―アラビアン・ナイト後日譚』ナギーブ・マフフーズ

ليالى ألف ليلة(1981)نجيب محفوظ

「古くて長い物語なら何でも受け入れるのか!」と自らに突っ込みたくなりますが、『千一夜物語』も勿論大好物です。
 個々の物語も面白いけれど、何より枠組みが秀逸で、おまけに語り手のシェヘラザード自身が萌えキャラの元祖みたいな人ですから堪りません。

千一夜物語』は、底本も作者もない説話集で、凡そ九〜十六世紀頃に、様々な人の手によって形作られたとされています。写本の種類も沢山あり、翻訳・編纂しヨーロッパに紹介した人も、また数多く存在します。
 つまりは、どれが本物……いや、そもそも本物も偽物もなく、何世紀にも亘って中東やヨーロッパ(あるいは全世界)をいったりきたりしながらできあがった物語集といえるようです(例えば、「アラジンと魔法のランプ」や「アリババと四十人の盗賊」はアラビア語の原典が存在しない。そもそも、アラジンは支那人である)。
 現在でも翻訳、翻案、派生作品などを介して、形を変え続けています(※1)。千年後には、どのような姿になっているんでしょうね。

 とはいえ、人口に膾炙した版もあり、それがアントワーヌ・ガラン、リチャード・バートン、ジョゼフ=シャルル・マルドリュスといった人たちが編集した『千一夜物語』です。
 ちなみに僕は、岩波文庫(マルドリュス版、全十三巻)と、ちくま文庫(バートン版、全十一巻)を所持しています。ただし、両者ともエロティックな面を強調しすぎているという批判があるため、平凡社東洋文庫カルカッタ第二版、全十九巻)も欲しいのですが、少々高いので現時点では購入していません。お金持ちになったら、まとめて買いたいと思います(いや、買うのは難しくないが、読むのが大変。老後の楽しみにするか……)。

 さて、アラビア語圏初のノーベル賞作家ナギーブ・マフフーズの『シェヘラザードの憂愁』(※2)も派生作品のひとつです。
 マフフーズといえば、カイロ三部作〔『張り出し窓の街(バイナル・カスライン)』『欲望の裏通り』『夜明け』〕に代表されるリアリズムの作家といったイメージがありますが、実際は多作かつ活動期間が長かったため、様々なタイプの長編を書いているそうです。
『シェヘラザードの憂愁』は、後期のファンタジックな作風に当たるみたいですね。

 千一夜に及ぶ長いお話の日々が終わり、スルタン(国王)シャハリヤールの正妻となったシェヘラザード。幸せが訪れたかに思えましたが、彼女は大量の人々を殺害したシャハリヤールを許してはいませんでした。一方、スルタンも自分の犯した罪に苛まれています。
 そんなとき、封印を解かれたイフリートたちが現れ、人間界に混乱を巻き起こします。彼らに操られて殺人を犯す者、夢のなかでセックスさせられる者、魔性の女に魅入られ命まで落とす男どもなどなど……。
 やがて、シャハリヤールは王座や家族を捨て放浪の旅に出ます。

 枠物語である『千一夜物語』は物語の方がメインならば、『シェヘラザードの憂愁』は枠組みが主となります。また、後日譚といいつつ、本家とは設定が少し異なる(シャハリヤールの弟シャハザマーンと結婚したはずのドニアザードが独身だったり、サマルカンドの王になったはずの大臣が元の職のままだったりする)ので、飽くまで枠組みをモチーフとして使用したといった感じです。
 章ごとに異なった人物に焦点が当てられますが、それぞれの人同士はつながりがあり、ひとつの大きな流れを形成しています。ほとんどの章で血腥い事件が起こり、数多くの人が亡くなります。
 早川書房異色作家短篇集『エソルドの怪人』に収められている「容疑者不明」という短編は、得体の知れない殺人事件が次々に起こるという話ですが、扱っている時代こそ違えど本書と雰囲気がよく似ています。

 事件の元凶となるイフリートは人々の欲望を写す鏡、いや増殖する装置で、強欲な者は身を滅ぼす定め……などと単純にはいかないのが、寓話とは異なるところです。
 例えば、警察長官のジャマサ・アルブルティーは歪んだ正義感から総督を殺害し打ち首になります。しかし、すぐに荷担ぎのアブドッラーとして復活し、相変わらず手を血に染めるものの、今度は処刑されずに狂人として放り出されてしまいます。
 一方、床屋のウジュルは、小賢しい策略で上流階級の仲間入りをしようと企みますが、すべてがバレて元の木阿弥になってしまいます。しかし、彼は罰せられることなく、以前と変わらぬ暮らしを営むのです。
 ところが、彼の息子のアラディンは敬虔な美青年で、シェイフ(イスラーム知識人、長老)の信頼も得、彼の娘と結婚しますが、無実の罪であっさりと打ち首になってしまいます。

 ここからいかなる教訓を読み取ればよいのかというと、別に深読みする必要はありません。
 というのも、イフリートが現れようがどうしようが、人生などというものはちょっとしたことでガラッと変わってしまうからです。
 悪知恵が幸運を呼び込むこともあれば、善意によって不幸のどん底に落とされることもある。誰かのせいにしたり、不運を嘆いたりしても無駄と分かっていながら、人々はそれをイフリートの仕業と思うようになったのかも知れません。

 尤も、陰惨な事件が続く割に、遣り場のない怒りや恐怖は感じられない。庶民はむしろ人間らしく生活しており、前述のジャマサにしても力も名もを失い、狂人になってようやく治安維持のために働くことができたといえなくもないし、アラディンは「死をもって死から救われた」と解釈されたりするのです。
 それに対して、総督や警察長官など要人たちは、殺したり殺されたり処刑されたり罷免されたりを繰り返し、目まぐるしく入れ替わります。これらは権力の腐敗を表現しているようですが、冗談みたいに次々と代わってゆくのがおかしい。
 また、娘婿を見殺しにするイスラーム神秘主義者のシェイフや、清く真面目故に悪魔に魅入られた青年など、単純な善悪では割り切れない人物たちの存在も、作品にリアリティと深みを齎すのに一役買っています。

 ところで、肝腎のシェヘラザードはというと、邦題とは裏腹に出番も少なく、影も薄い。
 生粋の語り部である彼女は、この小説でも自らの物語を持たず、枠の外から猥雑な世界を冷ややかに眺めているのでしょう。

※1:最も有名なのはペティ・ド・ラ・クロワの『千一日物語』か。広く捉えれば、ヤン・ポトツキの『サラゴサ手稿』や、スタニスワフ・レムの『ツィベリアダ』、イサベル・アジェンデの『エバ・ルーナのお話』なんかも含まれるだろう。そういえば、『サラゴサ手稿』の完訳版はどうなったのかしらん。

※2:「憂愁」を「憂鬱」とする誤りが多いため、ネットで検索する際などは注意が必要である。ちなみにシャルル・ボードレールの『Le Spleen de Paris』の邦題は、岩波文庫では『パリの憂愁』で、新潮文庫では『巴里の憂鬱』と、こちらもややこしい……。


『シェヘラザードの憂愁 ―アラビアン・ナイト後日譚』塙治夫訳、河出書房新社、二〇〇九

千一夜物語』関連
→『夜物語パウル・ビーヘル
→『アラビアン・ナイトメア』ロバート・アーウィン
→『船乗りサムボディ最後の船旅』ジョン・バース