Der Schweizerische Robinson(1812)Johann David Wyss
主人公が孤島に漂流し、サバイバルする文学を表す「ロビンソナード(Robinsonade)」という用語は、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』(1719)が書かれた十二年後にヨハン・ゴットフリート・シュナーベルによって用いられました。
つまり、ヨハン・ダビット・ウィースが、『スイスのロビンソン』(写真)の元となったお話を子どもたちに聞かせていた十八世紀末には、孤島サバイバル小説がすでにひとつのジャンルとして成立していたことになります。
作中にも「いろいろな本で読むロビンソンは、みんな結局は、しあわせに家へ帰って来るじゃないか」とあることから、当時から様々なロビンソナードが書かれていたことが分かります。
現代では、単純な漂流ものは余りみられませんが、ミステリーやホラー、SFのジャンルではまだまだ重宝するテーマのようです。
児童文学においても、子どもの心を捉える題材であり、その分野で最も有名な作品がジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記(二年間のバカンス)』と『スイスのロビンソン』であることは論を俟ちません。
『スイスのロビンソン』を執筆したのは牧師であるヨハン・ダビット・ウィースですが、それを編集して出版したのは息子のヨハン・ルドルフ・ウィースです。父はこの物語を四人の子どもたちに読ませるためだけに書き、出版するつもりなどなかったといわれています。
物語を創作するきっかけとなったのは、ロシア人の船長による、さる報告です。船長はニューギニア島の近くに島を発見し上陸すると、そこでスイスの牧師家族に出会いました。牧師家族は布教のため、タヒチに向かう途中、船が難破し、無人島に漂着したと語ったそうです。
ヨハン・ダビット・ウィースはこの実話に様々な教訓や加え、子どもの教育に使用したのです。
日本では大正時代には翻訳が刊行されており、『新ロビンソン』『家族ロビンソン』といった名前でも知られています。しかし、邦訳に限らず、各国版は書き換えられたものが多いそうです。その点、岩波文庫版は、ドイツ語原本からの忠実な翻訳になります。
一九八〇年には「世界名作劇場」で『ふしぎな島のフローネ』としてアニメ化もされています。ただし、フローネというのはアニメのオリジナルキャラで、原作では家族に少女はいません。
また、この小説の大ファンであるヴェルヌは『Seconde Patrie』という続編を書いています。
スイス人の牧師一家がオーストラリアへ向かう途中、船が難破してしまいます。船員が逃げ出したため、一家は樽の船を作り、近くの孤島へ辿り着きます。
牧師の父親、母親のエリザベス、四人の息子(十六歳のフリッツ、十四歳のエルンスト、十二歳のジャック、十歳のフランツ)、そして二匹の犬(テュルクとビル)というメンバーです。
一家は無人島で、力強く、楽しく生きてゆきます。
『スイスのロビンソン』の特徴は、悲壮感が全くないことです。船が難破しても、孤島に漂流しても、嘆くことなく、家族は前向きに対処します。
ロビンソン・クルーソーのようにひとりきりでもなく、『十五少年漂流記』のように子どもだけでもなく、ペットを含む家族が丸ごと揃っているため、絶望感を抱かずに済んだと思われます。子どもたちは最初、一家でキャンプにやってきたような感覚を持ったのではないでしょうか。
辿り着いた無人島と難破した船の積荷が、とんでもなく豊かであることも重要です。
漂流した直後から、生きるために欠かせない水や塩(製塩の必要なし)がみつかります。魚、貝、甲殻類、鳥は簡単に手に入り、森に少し入ればヤシの実やサトウキビが生い茂り、蝋やゴムまで揃っています。生態学を無視して世界中の動植物が集っている(フラミンゴ、雷鳥、水牛、カピバラ、駝鳥、熊、ライオン、虎、狼、象、カバ、セイウチ、オランウータンなど)し、原種ではない野菜や米が生えているので、狩猟も農耕もすぐに始められ、食には全く不自由しません。
さらに、船には様々な家畜をはじめとして、テント、銃、調理器具、食器、書物などありとあらゆるものが残っている。おまけに、それらを奪い合う人間もいないのです。
サバイバルというよりも、グランピングとか、強くてニューゲームのような感じといえば分かりやすいでしょうか。
一家の能力や運のよさも凄まじい。
父だけでなく、母も子も、適当な材料を用いて生活に必要な道具や弓矢などを簡単に作ることができます。それどころか、船、橋、木の上の家など、普通なら完成まで何か月も掛かりそうな大掛かりなものさえ、あっという間に作り上げてしまいます。
その速度も驚異的ですが、素人のはずなのに失敗がほとんどないので、DIYの実用書を読んでいるような錯覚に陥るときもあります。ひょうたんを使って可愛い卵入れを作るのは、さすがに呑気すぎますが……。
大抵の物語は様々な問題や事件が発生し、それをきっかけに話が進みます。『スイスのロビンソン』も一応トラブルは生じるのですが、余りにもあっさりと解決してしまうため、盛り上がりに欠けます。
トラブルというのも、ほぼすべてが猛獣関係です。大蛇や熊、ライオンなどをいかに倒すかは描かれているものの、人間関係に関する問題は全く生じません。人がふたりいれば必ず生まれる確執、反抗、嫉妬、不満といったものは存在せず、家族は父親中心に常に一致団結しているのが不自然ではあります。
だからといって面白くないわけではないのが、この小説の不思議なところです。
過酷なサバイバルを期待すると見事に裏切られますが、そもそも『スイスのロビンソン』はそれを楽しむ作品ではありません。
それでは何が目的かというと、これは家族が孤島で絆を深めるとともに、牧師の父親が子どもたちに、知識や技術、倫理や道徳、神の教えなどを身につけさせるための物語なのです。
ですから、島がこれだけ豊かなのは神の思し召しの一言で片づけられてしまいますし、日曜日は安息日なのでサバイバル中であろうとお祈りをして、きちんと休みます。
ここには父親の理想とする家族が描き出されています。しかも、邪魔をする他人はいないので、思うとおりに子育てや教育を施せます。
実をいうと、この家族は島で生きるために全力を尽くしますが、脱出するための努力はほとんどしません(あるいは描かれない)。その上、ヨーロッパでの暮らしを懐かしんだり、家族以外の誰とも接触できないことに苦しんだりもしない。
元々、スイスを捨て、入植が始まったばかりのオーストラリアへゆこうと考えていたくらいなので、故郷に未練はないのかも知れませんが、それにしても冷淡すぎます。穿った見方をすると、犯罪を犯したり、借金を抱えたりして、逃げ出してきた家族のようなのです。
ただ、子どもにとって家族は非常に大きなウエイトを占めており、ともに過ごす時間は幸福以外の何ものでもありません。
おまけに学校へも教会にもゆかなくてよいとなれば、正に楽園です。読者がそれに釣られて楽しい気持ちになるのは無理もないでしょう。
つまりは、ジェラルド・ダレルの「コルフ島三部作」と同じように、幸せな気持ちになって家族の孤島ライフを楽しめばよいわけです。
そう思っていると、第十章で、とんでもない事実を知らされることになります。第九章の終わりから、何と一気に八年間の月日が流れてしまうのです(漂流からは十年)。
なお、サバイバルの期間は『ロビンソン・クルーソー』で二十八年、『十五少年漂流記』で二年です。『スイスのロビンソン』の十年は、子どもの年齢を考えると長過ぎるといわざるを得ません。最も若いフランツは、十歳から二十歳になってしまいます。
一、二年であれば、地上の楽園での幸福な日々であっても、思春期を含む十年を家族とだけ過ごさせてしまうのは、さすがに残酷ではないでしょうか。
十年後にようやく、他人であるイギリス人の少女ジェニーが孤島生活の仲間に加わりますが、当然ながら性に目覚めたり、ひとりの女性を兄弟で奪い合ったりすることはなく、彼らは可愛い妹が家族に加わったと無邪気に喜ぶのです。
ここまでくると、舞台は孤島というより、現世の悩みやしがらみがない天国なのかも知れないと思えてきます。争いもなく心も穏やかだけど、退屈な土地など、過去においても未来でも、地球上のどこにも存在しないからです。
家族水入らずで平和な日々を送る孤島が、果たして天国なのか、それとも地獄なのかは、読者によって判断が異なるでしょう。少なくとも僕は、このような条件で長くは暮らせないし、文明社会にすんなりと戻ることもできないと思います。
したがって、スイスの家族のサバイバルは物質的には豊かでも、精神的にはこれ以上なく過酷だったのではないかと考えざるを得ません。
英国の船が現れてからは、さらに意外な展開が待っていますが、ネタバレになるので書きません。
ただ、ラストの両親の選択は受け入れにくく、だからこそ、その後の教訓めいたまとめは、息子のヨハン・ルドルフ・ウィースが出版に際してつけ足したものではないかなどと勘繰ってしまいます。
……などと、勝手なことを書きましたが、それらは現代の捻くれたおっさんの印象に過ぎません。
これから読まれる方は、余計なことを気にせず、仲よし家族の孤島サバイバルを楽しんで欲しいと思います。
『スイスのロビンソン』〈上〉〈下〉宇多五郎訳、岩波文庫、一九五〇
『ロビンソン・クルーソー』関連(ロビンソナード)
→『フライデーあるいは太平洋の冥界』『フライデーあるいは野生の生活』ミシェル・トゥルニエ
→『前日島』ウンベルト・エーコ
→『敵あるいはフォー』J・M・クッツェー
→『宇宙人フライデー』レックス・ゴードン
→『ピンチャー・マーティン』ウィリアム・ゴールディング
→『月は地獄だ!』ジョン・W・キャンベル
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