The Wonderful O(1957)James Thurber
ジョルジュ・ペレックの『煙滅』は「e」を使わずに執筆され(翻訳は「い段」抜き)、筒井康隆の『残像に口紅を』は使える文字が少しずつ減ってゆくという制約のもとに書かれました。
また、未訳ですが、ウォルター・アビッシュの『Alphabetical Africa』(1974)は、最初の章はaで始まる単語のみで書かれ、章が進むにつれb、cと使える単語が増えてゆき、二十六章のzまでゆくと今度は逆にひとつずつ減ってゆくというルールになっています。
それらは作者に対する制約ですが、ジェイムズ・サーバーの『すばらしいO』(写真)は、登場人物があるルールを背負わされます。
といっても、厳密な規則に則った実験作ではなく、言葉遊びを用いた楽しい児童書なので、肩肘を張らずに楽しめるでしょう。
詳しくは後述しますが、僕の知っている限りでは、アンソニー・バージェスの『どこまで行けばお茶の時間』(1976)がテイスト的には近い感じがします。
居酒屋に現れた船乗りのリトルジャックは宝の地図を持っています。彼は宝を探しにゆくための船と船員を探していました。名乗り出たのはブラックという男で、ふたりは船員を伴い、宝の島へ向かいます。
ブラックは、母親が船窓(porthole)に嵌ってからというもの「O」の文字が嫌いになり、あらゆる単語から「O」を削除するか、その単語自体を消してしまいます。
宝の島で次々にOを消してゆきますが、宝はみつからず……。
『どこまで行けばお茶の時間』は全編に「E」の文字が響いていますが、『すばらしいO』は「O」にこだわった小説です。「O」を憎むことで、逆に「O」が強調されているともいえます。
「O」がなくなるケースには、ふたつのパターンがあります。
ひとつは、単語から「O」が消える場合です。例えば、ロビンフッド(Robinhood)はルビンフト(Rbinhd)になります。
これは、日本語に翻訳した方が原文より上手くケースもあります。The Moon Belong to Loversは、原文ではThe Mn Belng t Lversとなり、余り意味はありませんが、邦訳は「月は恋人たちのもの」を「月は小人たちのもの」といったように工夫されています。
もうひとつは、「O」を含んだ単語を使わず、別の単語で代用するパターンです。つまり、寝泊まりするのに、houseもcottageもbungalowも使えないため、あばらや(hut)や掘っ立て小屋(shanty)や丸太小屋(cabin)を利用するわけです。
こちらの方は、制約を課された作者としての苦労に近く、読者も楽しめます。
何が使えて、何が使えないかは、ブラックに雇われた法律家のハイドが決めます。
「violetは駄目で、lilyはオーケーといっても、lilyだって広く捉えればflowerではないか」とか、「グレープフルーツは英語(grapefruits)だといいけど、フランス語(pamplemousse)にしたら駄目なのか」といった疑問に、ハイドが判決を下してゆくのです。
突っ込みどころは多いものの、そうした馬鹿馬鹿しい議論や騒動がこの本の読みどころにもなっているので、笑いながら読み進めてください。
さらに、子どもと一緒に「Oのつく(つかない)動物をあげてみよう」とか、「Oを使わないで話をしよう」とか、「Aのつかない食べものと、Oのつかない食べもの、どっちが多いか?」なんてクイズを出しながら読むのもよいと思います。恐らく、サーバーはそれを想定して執筆したのではないでしょうか。
日本語だったら、「お」とか「あ」に置き換えれば、同じように遊べるはずです。複数の子どもで競い合っても面白いかも知れません。
ところで、この本は五十年以上前に翻訳されました。そのせいか、上手く日本語になっていないのがやや残念です。
どういうことかというと、文章の半分くらいは英単語が占めてしまっていて、日本語の言葉遊びとしてはほとんど機能していないのです。
現代の翻訳家であれば、もっと攻めた訳し方をすると思います。
例えば、「お段(お、こ、そ、と、の、ほ、も、よ、ろ、を)」を使わなかったり、それを抜くことで意味が変わる言葉を選んだりするのではないでしょうか。
色々な意味で難しいかも知れませんが、子どもも大人も楽しめる新訳が出たら嬉しいですね。
『すばらしいO』船戸英夫訳、興文社、一九六八
→『現代イソップ/名詩に描く』ジェイムズ・サーバー
→『SEXは必要か』ジェイムズ・サーバー、E・B・ホワイト