読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『前日島』ウンベルト・エーコ

L'isola del giorno prima(1994)Umberto Eco

 以前、図書館を利用しない理由を述べましたが(※)、もうひとつ大きな事情があって、それは僕が余り本を読まないってこと。
 僕は典型的な積読派で、本を買うのは大好きだけど、読むのが全く追いつかず、恐らく蔵書の七割くらいは未読です。ときどき、書棚から取り出してペラペラめくったりするけど、大抵はそのまま元の場所に戻してしまう。だから、図書館なんかで借りる必要も余裕もないんですね(そういうわけで、本当は再読なんてしてる場合じゃないんだけど……)。

 ウンベルト・エーコの『前日島』(写真)も前世紀に購入した後、長い間、積読状態で、手をつけたのは文庫化された後でした。
 その理由は、何となく「小粒」という印象があったためです。『薔薇の名前』も『フーコーの振り子』も上下巻だったのに、この本だけは単巻だったため、そんな風に思ってしまったのかも知れません。というのも、エーコの本に期待するのは、圧倒的なカルト知識の渦に飲まれることだからです。
 ところが、そんな心配は不要でした。『前日島』もまた、様々な蘊蓄で満たされていました(そもそも二段組だから、実はそんなに短い小説ではない)。サン=サヴァンの恋愛指南、傷口ではなく、切った刃の方に粉を振りかけ、回復を妨げている鉄を引き寄せる共感の粉という治療法(似たような理屈は『ハックルベリー・フィンの冒険』にも出てくる)、犬を使って、遠く離れた場所の時刻を合わせる方法など、興味深く楽しいものばかり。こうした脱線部分だけでも、読む価値は十分にあります。

 ちなみに、この小説も『ロビンソン・クルーソー』と関係があります。解説によると、主人公ロベルト・ド・ラ・グリーヴの「グリーヴ」はツグミという意味で、ロビン(ロビンソンは「ロビンの息子」の意)のラテン名と重なるそうです。
 それはともかく、『前日島』は、十七世紀半ば、南太平洋で難破した船のなかでの孤独な妄想(『薔薇の名前』同様、胡散臭い手記)なので、当然、ロビンソンと響きあうものがあります。とはいえ、エーコのことですから単純な漂流譚で終わるはずはありませんけど……。

 日付変更線上にある島の目の前で難破した船に取り残されたロベルト。そして、彼の波乱に満ちた半生が交互に語られます。そのどちらもが抜群に面白く、充実した読書を楽しめます。
 泳げないロベルトは、難破船に留め置かれ、やがて、架空の兄フェッランテと愛しの人リリアを主人公にした小説を書くことに熱中してゆきますが、彼の書いた作中作も読み応えがあることはいうまでもありません。

 僕は、これまで読んだエーコの小説のなかで、ロベルトというキャラが一番好きです。取り立てて行動力があるわけではなく、いわゆる災難に巻き込まれるタイプの主人公なのですが、持ち前の純粋さと、人のよさで苦難を乗り越えてゆく。妄想癖があるけれど、気が弱くて、バウドリーノのように偉そうじゃないところも共感できます。
 教養小説好きの僕にとっては、正にツボな作品なわけです。

 一方で「一日前に位置する島」という魅力的な設定が、今ひとつ生かされていない点が、やや不満でした。いや、「大作家に向かって何をいうか!」と呆れられるのを承知で書いてしまいましょう。
 僕は、この設定を用いて、現実と虚構を超えたリリアとの劇的な再会を演出して欲しかったんです。
 結末は、読み方によっては希望が失われていないとはいえ、やや拍子抜けさせられます。この点が、日本の読者の期待を裏切り、余り話題にならなかった原因になったという気がしてなりません。
 勿論、売れるためにドラマチックな演出をすればよいというわけではありませんが、絶版になってしまったのでは新しい読者を増やせませんから、難しいところだなあとつくづく思います。

※:図書館を利用しない理由のまとめは、こちらです。

『前日島』藤村昌昭訳、文藝春秋、一九九九

ロビンソン・クルーソー』関連(ロビンソナード)
→『フライデーあるいは太平洋の冥界』『フライデーあるいは野生の生活ミシェル・トゥルニエ
→『敵あるいはフォーJ・M・クッツェー
→『宇宙人フライデー』レックス・ゴードン
→『ピンチャー・マーティンウィリアム・ゴールディング
→『月は地獄だ!』ジョン・W・キャンベル
→『スイスのロビンソン』ヨハン・ダビット・ウィース

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