読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『吸血ゾンビ』ジョン・バーク

The Second Hammer Horror Film Omnibus(1967)John Burke

 僕の読書は、足と肩に自信のない遊撃手のように守備範囲が狭いので、苦手なジャンルが数多くあります。なかでもホラーは小説も映画も不得意で、知識もないし面白味もよく分かりません。
 恐らく、ホラーやポルノグラフィを楽しむにはある種の想像力が必要で、僕はそれを備えていないのでしょう。この場面で怖がるのか(あるいは興奮するのか)、それとも笑うのかが判断できずに困ることがよくあります。

 そんなわけで、『吸血ゾンビ』はソノラマ文庫海外シリーズの割に安かったので購入したものの、「恐らく死ぬまで積読のままであろう本」の筆頭でした。古いモンスター映画のノベライズが二編収められるという、一塁手にとってのレフトフライみたいな本なので、当然といえば当然です。
 ところが先日、ソノラマ文庫海外シリーズの『悪魔はぼくのペット』を取り上げたこともあって、そのつながりで「ちょっと読んでみようかな」という気持ちになりました。「五十年も前のモンスター映画のノベライズを、わざわざ引っ張り出す人なんてそうそういないだろう。それなら、僕が読まなければ!」という得体の知れない使命感に駆られたといえば、かっこよく……はないですね、別に(ちなみに、このブログで映画のノベライズを扱うのは多分初めて)。

 さて、かつて英国にハマーフィルムプロダクションズという映画の制作会社が存在しました。
フランケンシュタインの逆襲』『吸血鬼ドラキュラ』といったクラシックなホラー映画を得意としており、一定の人気と評価を得ていました。ハマーフィルムは、テレンス・フィッシャー監督、クリストファー・リーピーター・カッシングという黄金トリオを生み出したことでも知られています。

 一方、ジョン・バークは、ライバルであるアミカスプロダクション制作で、リーとカッシングが出演した『テラー博士の恐怖』(一九六五)のノベライズを書いています。
 それが目に止まったのか、あるいはアミカスの邪魔をしてやろうと考えたのか、まるで引き抜かれたかのように翌年、翌々年とハマーフィルム映画のノベライズ(アンソロジー)を刊行しています。それが以下の二冊です。

『The Hammer Horror Film Omnibus』(一九六六)
 「妖女ゴーゴン」(The Gorgon)
 「フランケンシュタインの逆襲」(The Curse of Frankenstein)
 「フランケンシュタインの復讐」(The Revenge of Frankenstein)
 「怪奇ミイラ男」(The Curse of the Mummy's Tomb)

『The Second Hammer Horror Film Omnibus』(一九六七)
 「蛇女の脅怖」(The Reptile)
 「凶人ドラキュラ」(Dracula: Prince of Darkness)
 「白夜の隠獣」(Rasputin: The Mad Monk)
 「吸血ゾンビ」(The Plague of the Zombies)

『吸血ゾンビ』は、第二集のなかから「吸血ゾンビ」と「凶人ドラキュラ」の二作を取り出したものです。ソノラマ文庫海外シリーズらしい中途半端な編集の仕方ですが、ハマーフィルムのファンからしたら、これだけでも貴重な死霊資料なのかも知れません(一応、スティル写真も掲載されている。写真)。
 ちなみに「ハマー・フィルム怪奇コレクション」というDVDの「吸血!モンスター編」にも、この二作は一緒に収められています(DVDは『吸血鬼ハンター』を含む三本立て)。

「吸血ゾンビ」
 二十世紀はじめ、ロンドンに住むジェームズ・フォーブズ卿の元に、かつての教え子で僻地で開業医をしているピーターから手紙が届きました。彼の住むタールトンという村では、村人が次々に不審な死を遂げているというのです。
 娘のシルビアを連れて村に向かったジェームズ卿は、そこで墓から甦るゾンビに出会います。

 映画『吸血ゾンビ』が公開されたのは一九六六年。ゾンビ映画の記念碑的作品といわれるジョージ・アンドリュー・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の二年前となります。
 尤もゾンビ映画は遥か昔からあったわけで、パイオニアと大ブームの間という微妙な位置づけだったりします。

 系統としては、魔術で死者が甦るブードゥー教のゾンビものになります。元祖ゾンビ映画『恐怖城』や名作『ブードゥリアン(私はゾンビと歩いた!)』の流れを汲む作品です。
「ゾンビに噛みつかれるとゾンビ化する」という設定は『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』が生み出したものなので、この小説においてゾンビに襲われる恐怖はさほど大きくはありません(実際、ゾンビはあっさりと退治されるし、ゾンビが血を吸うわけではない。吸血という邦題は何か変だ)。

 ゾンビ映画というとゴアとかスプラッタへ向かうことが多いですが、小説の場合、怖さか、馬鹿馬鹿しさを満たしたものこそ最上級と考えています〔前者はスティーヴン・キングの『ペット・セマタリー』を、後者はセス・グレアム=スミスの『高慢と偏見とゾンビ』を特に評価する(後者は八割方、ジェイン・オースティンの文章を使うというとんでもない小説である!)〕。
 けれど、『吸血ゾンビ』はそれらとは別の意味で面白かった。

 というのも、この作品は、ある者が魔術によって人を一旦殺し、彼らを甦らせる。なぜなら……という部分がしっかりしているからです。
ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』『ゾンビ』『死霊のえじき』らのように、わけも分からずゾンビに襲われるという理不尽な怖さはないものの、よく考えると、飽くまで利己的な目的のため人をゾンビに変えてしまう人間の心根の方が余程恐ろしいわけです。
 伏線も効いていて、ホラーやスリラーというよりは、ミステリーとして十分楽しめる出来になっています。

 古い怪奇映画のノベライズなどと侮らず、読んでみないと駄目ですね。

「凶人ドラキュラ」
 カルパチア山脈を旅する四人の英国人(チャールズ、兄のアラン、お互いの妻ダイアナとヘレン)が、ドラキュラ伯爵の城に迷い込んでしまいます。そこには召使いのクローブがいて、主人は死んだと告げます。
 やむを得ず城に泊まった夜、アランが殺害され、その血によってドラキュラが復活します。チャールズとダイアナは神父に助けられ、一旦は修道院へ逃げ込むのですが……。

 ハマーフィルムの「ドラキュラ」シリーズは九作まで制作されました。
 一作目がブラム・ストーカーの小説を映画化した『吸血鬼ドラキュラ』(一九五八)で、リーのドラキュラ伯爵、カッシングのエイブラハム・ヴァン・ヘルシング(吸血鬼ハンター)が当たり、大ヒットしました。
 二作目の『吸血鬼ドラキュラの花嫁』(一九六〇)は、なぜかドラキュラが登場せず、その代わりに後を継いだマイスター男爵が現れます。それが今イチだったのか、再びドラキュラを主役に据えたのが『凶人ドラキュラ』(一九六六)です。
 ところが、今度はヴァン・ヘルシングが不在です。ふたりが再び顔を揃えるのは七作目の『ドラキュラ'72』(一九七二)まで待たなくてはなりませんでした。

 さて、『凶人ドラキュラ』は、ヴァン・ヘルシングもおらず、ドラキュラも一切喋らないため、それ以外のキャラクターがとても重要になってきます。
 例えば、四人のイギリス人の造形は、こんな具合。主人公のチャールズは陽気で好奇心が強い。兄のアランは弟と違って慎重だが、決断力がないため、いつも弟の決定に従う。兄の妻のヘレンは保守的な性格で、いつもチャールズと争う。ダイアナは夫のチャールズを敬愛する可愛い妻。

 彼らの性格の違いを十分に生かすためには、ともに危機を経験させる必要があります。
 ところが、アランはあっさり殺され、ヘレンも血を吸われ吸血鬼になってしまうのです。一作目で死んだドラキュラを復活させるためやむを得ないとしても、折角四人も揃えたのですから、もう少し引っ張ってもよかったかも知れません。

 ただし、何となく胡散臭いシャンドー神父、ドラキュラの下僕クローブ、蝿を食う男ラドウィッグらがなかなかよい味を出しています。前半と後半で主要人物が入れ替わるような面白さもあります。

 まあ、それにしても、ドラキュラに科白が全くないというのは、やはり違和感があります。特に小説化するとまるで存在感がなくなり、虚しさばかりが残るのです。
「リーが科白を気に入らず、削らせた」という説と「元々なかった」という説に割れているようですが、こんなのを望む人は多くないと思われます。何よりファンのことを考えて製作してもらいたかったなあ。

 なお、角川文庫の『ヴァンパイア・コレクション』には、映画の脚本を書いたジミー・サングスター(変名ジョン・サンソム)版の『凶人ドラキュラ』が収録されています。
 ご興味のある方は、そちらもどうぞ。

『吸血ゾンビ ―悪夢のゾンビ&バンパイア』羽田詩津子訳、ソノラマ文庫、一九八六

ソノラマ文庫海外シリーズ
→『悪魔はぼくのペットゼナ・ヘンダースン