読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『汝、人の子よ』アウグスト・ロア=バストス

Hijo de hombre(1960)Augusto Roa Bastos

 アルゼンチンとブラジルに挟まれた小国パラグアイで最も名の知れた作家といえるのがアウグスト・ロア=バストス。
『汝、人の子よ』は、彼の小説のなかでも『Yo el Supremo』(一九七四)と並んで評価が高い長編です。当然ながらマジックリアリズムに分類され、一九六〇年代のラテンアメリカ文学ブームの一翼を担った作品でもあります。

 残念ながら、我が国においてロア=バストスの知名度は著しく低く、邦訳もほとんどありません。しかし、『汝、人の子よ』は物語の力強さ、語りの巧みさで『百年の孤独』や『緑の家』に引けを取らないと断言できます。
ラテンアメリカ文学は好きなのに、マイナーなパラグアイの作家のせいか、チェックから漏れていたよ」という方は、迷わずお読みください。僕なんかの保証でよければ、惜しまずつけますよ。

 作品の舞台は、十九世紀半ばから二十世紀初頭のパラグアイ。アルゼンチン、ブラジル、ウルグアイとの三国同盟戦争ボリビアとのチャコ戦争と、パラグアイが争いを繰り返していた時代です。このふたつの大きな戦争のせいで、パラグアイの男性人口は極端に少なくなり、「街を歩くと木から女が降ってくる」といわれたそうです。
 本書は全九章に分かれており、奇数章の語り手はミゲル・ベラ中尉、偶数章は何者かの手記という設定です。まるで連作短編のように時代も場所も異なるできごとが断片的に語られるため、あらすじを書きにくい……。そこで今回は、章ごとに内容を簡単に記載します。

一章パラグアイ独立運動の指導者にして、初代元首のホセ・ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシアの奴隷だった老人が、少年時代のミゲルらに過去を語ります。楽器職人だった甥のガスパールは癩を患い、世捨て人となります。彼が生前作った等身大のキリスト像をめぐるお話です。
二章:農民の反乱が不成功に終わり、大量の死者を出したサプカイ村にロシア人の医師アレクセイが現れます。彼は治療によって村人の信頼を得ますが、ある日、ふいに姿をくらませてしまいます。
三章:士官学校へ入学するため汽車に乗ったミゲルは、アレクセイと出会います。アレクセイは赤ん坊を奪ったと疑われ、袋叩きに遭い、サプカイ村に放り出されます(二章より前のできごと)。
四章:農民の反乱を指揮したカシアーノ・ハラは、妻とともにマテ茶栽培地で過酷な労働に従事させられます。息子のクリストーバル誕生を契機に脱走を図り、サプカイ村に辿り着きます(これも二章より前)。
五章:謀反が発覚し軍を追われたミゲルは、サプカイ村で青年になったクリストーバルと出会い、反乱軍の指導をして欲しいと頼まれます。
六章:ミゲルの密告により反乱は失敗に終わり、ミゲルは捕らえられ、クリストーバルは潜伏します。軍がクリストーバルを捕らえようと躍起になるなか、大胆にもフィエスタに現れた彼は癩患者に守られ、姿を消します。
七章:チャコ戦争が始まり、刑務所にいたミゲルも前線に駆り出されます(クリストーバルも戦闘に参加しており、姿をちらとみかける)。灼熱の平原での真の敵はボリビア軍ではなく、飢えと渇きでした。
八章:前線に水を届けるための給水車を運転するクリストーバル。他方、彼を慕う看護婦のサルイーは男装して部隊についてゆきます。しかし、途中、敵の爆撃を受けたり、水に飢えた味方兵士に襲われたりし、仲間は次々に死に、サルイーも力尽きます。
九章:戦後、故郷の村に戻って村長になったミゲル。気が触れて帰還した兵士の世話を焼くものの、孤独のうちに死を迎えます(※)。


 パラグアイは、貧しく文盲率が高く、人口密度の低い(国土は日本よりやや大きいが、人口は約六百万人)国です。不毛な未開地が多く、国民は長い間、戦争や圧政に苦しめられてきました。
 ロア=バストスは、そんな祖国の悲しい歴史をミゲルとクリストバールというふたりの男に象徴させたように思えます。

 士官学校出のエリート軍人のミゲルは、反政府ゲリラの手助けをするものの、結局は彼らを裏切ることになり、双方から嫌われる蝙蝠のような存在になってしまいます。
 彼は決して狡猾な人物ではないし、きちんとした教育を受けたインテリだけど、信念を持っていません。どの道を進めばいいか自分では決められないし、行動も起こせない。「(本を読み)誰かの考えが述べられている個所が見つかると赤鉛筆で囲む。こうしてそれを自分の思想の一部にするのだ」なんていってる人物なのです。
 パラグアイに不幸を齎らした原因のひとつは、こうした無責任な支配階級にあると批判しているようにみえます。

 一方、クリストーバルは、農民のため、国のため、身を粉にして働きます。犠牲的精神をもって、信じた道を脇目も振らず突き進む彼は、正に名もなき英雄にほかならなりません。
 しかし、クリストーバルは、皮肉にも助けにいったミゲルに撃たれ、命を落としてしまいます。また、彼の死後(チャコ戦争に勝利した後)もパラグアイの国民は、相も変わらず圧政と内戦に悩まされ続けます。
 一見、事態は全くよくなっておらず、とどのつまり、この物語は無力な民の敗北を描いたのかと思いきや、ロア=バストスは、こう書きます。

「無名ではあるがハラのような男は無数にいたのだ。(中略)自己を忘れて前進を続けることなのだ。喜びも勝利も、敗北も性も、愛も失望も、つまりは果てしない砂漠を進む彼らの旅程の一つに他ならなかった。彼らのうちある者は倒れ、ある者は前進した。そして大地の古いかさぶたの上に溝と足跡と血痕とを残していった。しかしその残したものがいかに僅かであってもそれらは猛々しく原始的な大地を肥沃にさせたのだ」

 パラグアイの国民の六割を占めるグワラニー族の言葉であるグワラニー語には悲しい言葉は存在しないそうです。
 この小説が書かれた当時は勿論、民主化以後も軍部が強い力を持つといわれるパラグアイの大地に、いつか豊かな花が咲くのでしょうか。

※:主要登場人物の表に誤植があるので注意。フワナ・ロサはクリサント・ビジャルバの「娘」とあるが、正しくは「妻」である。

『汝、人の子よ』ラテンアメリカの文学10、吉田秀太郎訳、集英社、一九八四