読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『最後の一線』ミハイル・アルツィバーシェフ

У последней черты(1912)Михаил Петрович Арцыбашев

 ふと気づくと、昨年、一昨年とロシア文学を一冊も扱っていませんでした。これほどの大国の文学に、二年以上も触れなかったことに自分でも驚いています(感想を書いていないだけで読んではいるけど)。
 用意していたアンドレイ・ベールイの『ペテルブルグ』が復刊されたり、イリヤ・エレンブルグの『トラストDE』やイリフ、ペトロフの『十二の椅子』が下書きのなかに埋もれていたといった不幸はありましたが、余りご無沙汰すると「こいつはロシア文学が嫌いなのか」と思われてしまいますので、今回はミハイル・アルツィバーシェフの『最後の一線』を取り上げます。
 実はこれ、百冊分くらい溜まっている下書きの最下部にありました。なぜ長い間、日の目をみなかったかというと……。

 アルツィバーシェフの代表作『最後の一線』と『サーニン』(一九〇七)は、筒井康隆がエッセイやフィクション(「耽読者の家」)で紹介していることで知られています。
 二作揃って「生涯のベスト」にあげるほど思い入れがあるようで、一九九〇年代にそれを知った僕は、早速、古書店で買い求めました。

 正直いうと、二作とも技法に稚拙さを感じますし、青臭い議論も鼻につきます(※1)。しかし、箍の外れた奔放さに加え、得体の知れない中毒性があり、結構な分量があるにもかかわらず、一気に読み終えてしまいました。それ故『最後の一線』は「二十世紀の100冊」にもあげたのです。
 しかし、だからといって感想文を書く理由にはなりません。影響力のある人気作家が既に紹介している以上、「絶賛してたから読んでみたけど、すげー面白かったです」を超えるものになるはずがないからです。

 そうした理由で、感想文を書くのを躊躇していたのですが、『最後の一線』は未だに新本では購入できない状況が続いています(『サーニン』は復刊された)。
 ひょっとすると「面白かったから、皆も読んでみて!」の鎖は切らない方がよいのではと思えてきました。どこの誰だか分からないおっさんがブログで取り上げたからといって、正直どうなるものでもないでしょうが、どんなに細かろうと輪がつながってさえいれば、いつの日か復刊されることだってあるかも知れません。

 勿論「復刊なんて待っていられない。すぐにでも入手したい」という方もいらっしゃると思います。ところが、『最後の一線』は、新潮文庫版や創元文庫版だと非常に高値で取り引きされており、おいそれと手が出ません。
 そこで狙い目になるのが、昭和五年に刊行された新潮社の「世界文学全集」です。
 これはいわゆる円本(※2)で、発行部数が多く、今では人気がないため、古書店の全集コーナーをこまめにチェックすると安価で手に入る可能性があります(ちなみに僕は三百円で買った)。しかも、前後編が一冊にまとまっていて読みやすい(文庫や単行本はほとんどが二分冊や三分冊)。
 ただし、函、カバー(四色のイラストが描かれている)、月報、主要人物の栞(ネタバレしているため注意が必要)など付属品が多いので、購入の際はしっかりご確認ください(写真)。

 さて、本題に入ります。
『最後の一線』には中心となる事件は存在せず、田舎の町に暮らす人々の人生が語られる、いわば群像劇です。
 作中の時間は概ね連続し、登場人物と場面が移ってゆきます。例えば、AがBの家にゆき、次にBがクラブに出かけCやDと会う。その後、Cが自宅へ帰りEと議論するといった具合に、連続した時間のなかで視点人物が次々切り替わる仕組みです。

『サーニン』は性欲賛美小説で、『最後の一線』は自殺賛美小説だなどとよくいわれます。
『サーニン』の主人公サーニンは、確かに「何よりも先づ自分の自然的慾望を満たさなければならない……この慾望がすべてです。人間に慾望の死滅した時は、彼の生命も亦死ぬ時です」といった主張をする青年です。
 しかし、この小説において彼は例外的な登場人物、いわば若者の悩みを超越した存在でした。それ故、サーニンに憧れた若者たちに「サーニズム」が蔓延したのでしょう(イワン・ゴンチャロフの『オブローモフ』がオブローモフシチナという言葉を生んだのと似ている)。
 といって、そんな生き方ができる者などそうそういるはずもなく、ほとんどの人は小さな悩みに翻弄されながら生きてゆくのです。

 サーニン以外の登場人物はそうした凡庸な人間ですが、「にもかかわらず」なのか「だからこそ」なのか分かりませんけど、総じて死に取り憑かれています(病死、自殺、自殺未遂など)。
 勿論、自死は飽くまで生について悩んだ結果であり、そういう意味では『サーニン』も『最後の一線』も「いかに生くべきか」を描いているといえます。

『サーニン』と『最後の一線』は生と死を扱っていること以外にも、一際異彩を放つキャラクターがひとりいるという共通点があります。
『最後の一線』において、サーニンに相当する人物は快楽主義者のミハイロフですが、それ以上に存在感があるのがナウーモフです。彼は「僕の理想は人類の剿滅です」と語る男で、「すべての死は人間に對する自然の暴虐で、たゞ自殺のみが自由なのです」などと嘯き、皆を煽ります。
 何しろナウーモフは、誰かが自殺をすると罪の意識を感じるどころか、それだけ自分が偉くなった気になるという、ある種の狂人なのです。

 こうした危険な思想に取り憑かれた若者はいつの時代・地域においても存在しますが、この物語においては、誰もがナウーモフの支配下にあります。「まるで自殺倶楽部でも立てるやうに」と批難しつつ、パイドパイパーの笛の音に操られる如く、最後の一線を安々と超えてゆくのです(その癖、ナウーモフ自身はのうのうと生き続け、皆が自殺する頃にはどこかへ姿を隠し、二度と登場しない。なお、彼が自殺しないのは、自らの偉大な思想を世界中に広めたいから)。

 アルツィバーシェフは『サーニン』において、同日に別の場所で仲間をふたりも自殺させました。若書き故、過剰な演出に走ってしまったのかと思いきや、『最後の一線』ではさらに激しくなるのですから吃驚です。
 とにかく『最後の一線』の登場人物自殺率は異常です。前編は病気、事故、決闘での死が描かれますが、後半(特に残り百頁から)は正に自殺ラッシュ。
 数撃ちゃいいってわけではないのは、レフ・トルストイの『アンナ・カレーニナ』と比較するまでもなく明らかでしょう。

 さらにいうと、アンブローズ・ビアスのように戦争で死に掛けたり、息子が銃で命を落としたりといったできごとを経た作家が扱う死と異なり、アルツィバーシェフの場合は観念臭がぷんぷんします。いかにも頭のなかでこねくり回したという感じがするのです。
 尤も、そうした頭でっかちなところがこの小説の存在意義であり、そこを楽しもうとしないのであればこの本を読む意味はないのですが……。

 実は小説としてみると、『最後の一線』は『サーニン』より遥かに巧みになっています。
 ほぼ若者しか登場しなかった『サーニン』と異なり、『最後の一線』は老若男女の生と死が扱われます。年老いた大学教授、若い女優、幼い子らはいずれも病で儚くなります。
 彼らをみつめるのは、独身で寡黙な老医師アルノルヂィ。自殺者の出ない前編は特に、彼の諦観が落ち着きと深みを齎しています。

 前述したように時間の流れはほぼ一直線で読みやすく、リアリスティックな描写も見事です。特に、今際の際の情景は細部まで丁寧に書き込んであり、読者の胸を締めつけてきます。
 これらは、青年たちがひたすら議論を繰り返していた『サーニン』にはみられなかった美点です。

 一方で、自死を選択する必然性には疑問が残ります。
「苦しいほど愛している妻に腹を立て、衝動的に剃刀で喉を搔き切る」なんていうとんでもないものまで含まれていたり、誰も彼もが連鎖反応のようにいとも容易く死んでゆくなんてのは、リアリティに欠けると批判されても仕方ありません。

 しかし、先に述べたとおり、この小説は死に至る心の動きに重点を置いていないのでしょう。
 そもそも自殺の動機なんて、第三者がいくら考えても分かるはずはありません。尤もらしい理由をつけたところで、正しいかどうかなど誰にも判定できませんし、既に亡くなってしまった者の役にも立たないのです。
 特にロシア文学は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスいわく 「ロシアの作家たちとその弟子たちは、人間のいかなる行為も不可能ではないことをうんざりするほど提示してくれた、――あまりの幸福感ゆえの自殺、慈悲心から出た暗殺、おたがいに熱烈に愛し合うあまり、永遠におたがいにはなれてしまう男女、激しい愛情ゆえの、あるいは謙遜ゆえの密告……」ですから、原因なんていかようにも捻り出せるわけです。

 そんなことよりも、若者たちの間に漂う死の匂いこそが大切ではないでしょうか。
 それが革命前夜という時代のせいなのか、党の活動から落ちこぼれたという劣等感のせいなのか、中央から隔たった土地で暮らしているせいなのかは分かりませんが、彼らの周りには凄まじいばかりの虚無感、厭世観が蔓延しています。

 フィクションにおいてさえ、そうした息苦しさは容易に醸し出せるわけはなく、ある意味でとても貴重な文学的体験といえます。しかし、だからといって当時の若い読者に直接的な影響を与えたとは正直、考えにくい。
 余りに過激すぎて、世を儚むというよりも、空気中に満ちている濃密な死臭に圧倒されてしまうような気がするからです。

『最後の一線』は、よくも悪くも規格外の作品です。
 ロシアの知識階級の青年の死生観とか、写実的な描写とか、自殺を芸術として昇華させるなんてのを全部突き抜けたところにある、現実とも虚構ともつかない奇妙で退廃的な世界。
 一歩間違えると、ゾンビに襲われてパニックになった小さな町と区別がつかなくなるのですが、それさえ魅力のひとつといってしまい兼ねない自分が怖くなります。
 しかし、こうした感覚を得ることこそが、この小説の正しい味わい方なのかも知れません。

※1:ウラジーミル・ナボコフによるとロシア文学の特徴は、重要な作品が十九世紀半ばから一九一〇年代に集中していることだそう(勿論、ナボコフ自身はそこから漏れるわけだから、自虐的なジョークかも知れない)。アルツィバーシェフはギリギリその世代だが、フョードル・ドストエフスキーを二流の探偵小説家と考えているナボコフのお眼鏡に適うはずはない。

※2:「一冊一円」「全巻予約制」「月一冊配本」の文学全集のこと。同じ形式で、各社から様々な全集が刊行された。
「世界文学全集」は奥付に「非賣品」と書かれているが、これは全巻セットを予約しなければ購入できなかったことを表す。一冊売りをしなかったため、各巻に定価が書かれていないのだ。
 一冊一円は「空前絶無の大廉価版」という謳い文句になるほど安かった(当時コーヒー一杯が約十銭)。ちなみに、第一期三十八巻は全巻購入すると四円割引の三十四円だったが、送料が一冊十銭なので三円八十銭かかる。つまり、二十銭しか得しない。
 なお、当時は検閲があったため、性的表現は伏字になっている。


『世界文学全集 第二期13』米川正夫訳、新潮社、一九三〇