読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『失なわれた虹とバラと』ネヴィル・シュート

The Rainbow and the Rose(1958)Nevil Shute

 講談社の「ウイークエンド・ブックス」は、一九六六年から一九七〇年まで刊行された叢書です。
「“面白さ”と“たのしさ”を世界から集めた」というよく分からないキャッチコピーが書かれています。要するに「週末に羽目を外す大人」というニュアンスが含まれているのでしょう。ラインナップの多くが冒険小説やエロティックな小説であるのも、そうしたコンセプトに沿うためと考えられます。

 ネヴィル・シュートの『失なわれた虹とバラと』(写真)は、そのどちらにも当て嵌まりませんが、物語、テーマ、技巧、文体のどれをとっても「大人の小説」であることは間違いありません。
 彼の最後から二番目の作品で、お得意の題材である「オーストラリア」「戦争」「パイロット」「恋愛」を用いています。

 ジョニー・パスコーは、民間航空のパイロットとして勤めた後、タスマニア島のバクストンで小さな会社を始め、悠々自適の独身生活をしています。ある日、盲腸炎に罹った少女を病院に運ぶため、嵐のなか飛行機を飛ばしたパスコーは墜落し、頭蓋骨骨折の重傷を負います。
 航空会社の機長であるロニー・クラークは、青年時代、パスコーに操縦を教わってから、三十年以上のつき合いがあります。クラークは医師を載せて飛行機を飛ばしますが、様々な困難が立ち塞がり、目的を果たすことができません。
 疲労困憊してパスコーのベッドを借りようとしたクラークは、壁に貼られた思い出の写真、そして突然訪ねてきたパスコーの娘との会話に刺激され、夢のなかでパスコーの過去を追体験します。

 老いた飛行機乗りの人生と、彼が出会った女性についての物語ですが、パスコーは最後まで登場せず、知人が夢のなかで彼の過去を知るという変わった形式になっています。
「何だ、夢か」と感じる方もいるかも知れません。しかし、フィクションにおいては、どちらにしても語られる内容に違いはないのです。そうなると、読者がそうした趣向を許容できるか否かの問題といえるでしょうか。

 とはいえ、『失なわれた虹とバラと』は単に夢をみているのではなく、現実ではクラークによる一人称で、それが夢のなかでパスコーの一人称に変化するというかなり珍しい手法を用いています。
 三人称であれば、クラークが夢をみていることになりますが、語り手が入れ換わることで、一体誰に語りかけているのか、混乱してしまう場面もあります。
 例えば、「彼女はロニー・クラークとお茶を飲んでいた。ロニーは飛行機に夢中だった。まだ十七歳で、セント・ピーターズ・カレッジの第五学級に在学していた」という描写は、クラークではなく読者に向けてのものになるでしょう。そもそも、会話だけならともかく、夢のなかにまで地の文があることが違和感の原因という気がします。
 新鮮味はないけれど、「パスコーの手記をクラークがみつけた」とした方が受け入れやすかったかも知れません。

 まあ、その辺は深く考えないようにすると、パスコーとクラークが夢のなかでシンクロするのは、生きた時代が異なるとはいえ、飛行機乗りとして、男として、共感できる部分が多いことを表していると気づきます。
 クラークにとって、パスコーや彼が生きた時代は、羨ましいくらい眩しいのです。

 一方で、かつての飛行機乗りの青春が輝いていたのは、常に死と隣り合わせだったという理由もありそうです。パスコーは、戦争に参加したことは勿論、空を飛ぶこと自体が命懸けだった時代の男です。
 実際、クラークが触れたパスコーの物語は、死の匂いに満ちています。

 パスコーは第一次世界大戦において、戦闘機のパイロットとして、敵味方にかかわらず、多くの死に触れてきました。「単独飛行の経験がほとんどない若者が戦地に送られ、当然のように命を落とす」「演習中に墜落する仲間もいる」ことが日常だったのです。
 そうした、いつ死ぬか分からないなかでの恋愛は、自然と刹那的にならざるを得ません。このときは相手が栄華と零落の代名詞のような女優だったこともあり、結果的に上手くゆきませんでした。

 一九三〇年代には飛行クラブで、荘園の夫人ブレンダに操縦を教えます。ブレンダの夫は、子どもにいたずらをし、精神病院に入院しています。
 ブレンダは、そんな現実から逃れるため、危険な世界へ自ら足を踏み入れるのです。ここでもパスコーは様々な死と対峙することになります。

 そして、旅客機のパイロットとして長年勤めた後、引退したパスコーは、ついに自らが航空事故を起こすのです。

 パスコーは、シュートのほかの小説の登場人物同様、昔気質の誠実な人間です。けれども、彼の過去を振り返ってみると、パイロットとしての経歴は輝かしいものの、人生においては小さな幸せさえ得ることのできなかった敗北者といわざるを得ません。
 恋愛にも結婚にも失敗し、タスマニアの僻地で世捨て人のように暮らし、ほとんど会ったことのない娘には憎まれます。もうひとりの娘には、自分の娘であることを知らずに結婚を申し込むという愚行まで冒してしまいます。

 そんな惨めな男の歴史を綴るからこそ、飛行機乗りとしての偉大さを敬愛しているクラークの存在が必要だったのかも知れません。
 リアルタイムで描くと生々しくなるし、本人による回想だと卑下や自己憐憫に陥って可能性がありますが、時間の流れと年下の崇拝者の目というふたつが、パスコーの人生に深みや輝き、そして苦味を齎しています。

 セピア色に変色した青春の甘さと苦さは、正に大人の味です。
 酸いも甘いも噛み分けた中年以上の男性に、強くお勧めします。

『失なわれた虹とバラと』大門一男訳、講談社、一九六八

→『アリスのような町』ネヴィル・シュート

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