読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『シンデレラの呪われた城』ダフネ・デュ・モーリア

Rebecca(1938)Daphne du Maurier

「はて。ダフネ・デュ・モーリアに、そんなタイトルの作品があったっけ?」と思われた方もいらっしゃることでしょう。
 しかし、ちょっと考えれば、答えは導き出せます。ポプラ社文庫(現:ポプラポケット文庫)の可愛らしい読者に読んでもらいたいデュ・モーリアの代表作といえば、「あれ」に決まっているではありませんか。

 そう。この本は『レベッカ』を子ども向けに翻訳(翻案)したものなのです。
 同じポプラ社文庫から出ていたケイト・ダグラス・ウィギンの『少女レベッカ』と混同しないように配慮したのか、あるいは当時人気のあったロックバンドのイメージに引きずられないようにするためだったのか分かりませんが、明らかにタイトルがおかしくなっています(ただし、その数年後、同文庫は『はずかしがりやの少女レベッカ』なんて本を出しているが……)。
 タイトルのシンデレラは、いわゆる「シンデレラガール」の意味で使われており、当然、作中に灰かぶり姫など登場しません。小学生の女の子が対象なので、レベッカなんて耳慣れない名前より、シンデレラの方が売れると考えたのでしょう。
 しかし、本を読み終わって「シンデレラもお城も出てこないじゃん!」と憤る少女はいたかも知れませんね。

 なお、『シンデレラの呪われた城』はポプラ社文庫の「怪奇・推理シリーズ」の一冊で、ほかにも有名な推理・ホラー小説が発行されています(※)。
 一般に知られているタイトルとは異なるものをあげてみるので、どの作品のことか考えてみてください(答えは「 」のなか)。
 エラリー・クイーン『病院連続殺人事件』→「オランダ靴の謎
 ヴァン・ダイン『殺人は歌ではじまる』→「僧正殺人事件
 ウィリアム・アイリッシュ『死を予告された男』→「夜は千の目をもつ
 アガサ・クリスティ『惨劇の館』→「邪悪の家」「エンド・ハウスの怪事件
 ダシール・ハメット『黄金の鳥連続殺人事件』→「マルタの鷹

 本題に入りますが、ここで『レベッカ』の感想を記す意味はなさそうです。また、文庫で上下巻のボリュームがある『レベッカ』をいかにコンパクトに収めたかについて書いても、大して興味を引かないでしょう。
 そこで今回は、『レベッカ』と『シンデレラの呪われた城』との決定的な相違点をいくつかあげておきます。
 デュ・モーリアの超絶技巧が消された児童向け翻案は、果たして、若い読者に何を残したのでしょうか。

 まず、『レベッカ』において名前のない主人公の「わたし」は、子どもにとって分かりづらいせいか「キャロライン」という名が与えられています。キャロラインとは、レベッカと「わたし」の夫であるマキシミリアン(マキシム)・デ・ウィンターの曾々祖父の妹(美女として有名だった)の名前です。
「わたし」がマキシムと結婚して最初に開いた仮装舞踏会で、キャロラインの仮装をし、マキシムを凍りつかせる。なぜなら、その仮装はレベッカが既に披露していたから。「わたし」は、レベッカの崇拝者であるダンヴァーズ夫人の奸計に陥った……というエピソードがあります。
 なお、「わたし」の名前は、『レベッカ』において「珍しく綴りが合っている」「独特で素敵な名前」と記載されているのみです。

 ちなみに、ウィンターのことは「わたし」を含めたほとんどの人がマキシムと呼びますが、レベッカ(と彼女の従兄弟のジャック・ファヴェル)だけはマックスと呼んでいました。
 このように『レベッカ』において、名前は非常に重要な意味を持ちます。

「わたし」に名前がないことには、様々な解釈が成り立ちます。
 マキシムの亡き前妻レベッカは、物語が始まったとき、既にこの世のものではないにもかかわらず、強烈な個性で、登場人物と読者を捉えます。表面上は華やかで、誰にも好かれる太陽のような女性として描かれているのです(実像は異なるが……)。
 一方、「わたし」は、家柄のよくない天涯孤独で平凡な二十一歳の女性。その上、名前も与えられていないのでは、最初から勝負はみえているといえます。
 また、主人公と同様、何の取り柄もない凡庸な読者が感情移入しやすいよう名前を伏せたとも考えられます。

 そんな「わたし」は、マキシムがレベッカを愛していなかったことを知り、レベッカの影に怯える必要がないことを悟るという重要な場面があります。
 それなのに、キャロラインという伝説の美女の名前を与えてしまうと、最初からレベッカと同じ土俵に立ててしまいます。それでは、亡霊を克服した「わたし」の成長と束の間の勝利(最後にはレベッカにしてやられる)が十分に表現できないのです。

 さらに、『レベッカ』は書き出しの一文「昨夜、またマンダレーにいった夢をみた(Last night I dreamt I went to Manderley again)」が広く知れ渡っています。
 この小説において架空の土地マンダレーは、誰もが憧れる楽園としてレベッカに次ぐ存在感を示しています。その場所の夢をみるとは、一体どういう意味なのでしょうか。

 実をいうとこの物語は、中年になった「わたし」の回想からなっています。物語のはじめは、追想と現実が絶妙に混じり合い、読者を酩酊させます。そのうち、外国の小さなホテルで暮らす、罪を背負った夫妻が、二度と戻ることのできないマンダレーへの郷愁を抱いていることが分かり始める。そこで、冒頭の一行が利いてきます。
 さらに、ラストシーンにも車のなかでうたた寝をしてしまって夢をみる「わたし」が描かれます。この不吉な夢が書き出しと呼応しているのはいうまでもありません。

『シンデレラの呪われた城』では、すべてのシーンが現在進行形のため、後悔の苦さが欠けています。
 それどころか、『レベッカ』とまるで正反対のラストシーンが用意されているのです。

 それと関係する大きな相違は、レベッカの死因です。
レベッカ』ではレベッカが故意に拳銃で射殺されますが、『シンデレラの呪われた城』は突き倒したはずみに打ちどころが悪く死んでしまいます。いうまでもなく、両者では殺人者の罪の意識が天と地ほども違います。
 意図して人を殺した者が罰せられることなく生き延びてしまうのはまずいといった配慮のせいかも知れませんが、夫妻は秘密を共有する者同士のぎくしゃくした関係と、結局はレベッカの思惑通りにしてやられたという敗北感に死ぬまで支配され、どうやっても幸せになれないというのが、この物語の肝なのです。

 あろうことか『シンデレラの呪われた城』は「マンダレーレベッカとともにほろびたのだ。これから、きみと力をあわせて、新しいマンダレーをつくっていこう」なんて前向きな終わりが待ってます。
 少女向けにアレンジされたとはいえ、こうなると最早全くの別ものという気がします。

 そのほか、『レベッカ』では暗示されるだけだった火事のシーンが挿絵つきで描かれたり、ダンヴァーズ夫人が自殺をしたり、マキシムの祖母が登場しないといった違いが存在します。

 さて、茶化すような書き方をしたせいで誤解させてしまったかも知れませんが、僕は現代にあっても、児童向けの荒唐無稽な翻案小説がもっとあってもよいのではないかと思っています。

 かつて日本では、海外文学を紹介するに当たって、黒岩涙香をはじめとする翻案小説が大きなウエイトを占めた時代がありました。外国の地名や人名、文化に慣れていない読者にとって、分かりやすく噛み砕いてくれた翻案小説は、娯楽として非常に重宝されたのです。
 翻案は児童文学において最も効果的であることはいうまでもなく、幼少の頃から、意識せず海外文学に親しんできた方も多いと思います。

 一方、翻案小説には著作権の抵触、またはオリジナルを尊重する読者の抵抗といった問題が生じます。そのため、近年では大っぴらに喧伝されることはほぼなくなりました(原案、オマージュといった形で残っていたりするが……)。
 かくして、書店や図書館の児童文学コーナーには、立派で行儀のよい名作が並ぶことになります。

 しかし、ゲームや漫画に押されっ放しの児童文学が生き残るには「お勉強」にしないことが重要ではないでしょうか。
「読書は偉い!」という風潮が僕にはどうも気持ち悪いし、子どもたちだって魅力に感じるはずがありません。

 特に小説は、大人が眉を顰めるほど胡散臭いものの方がよい。別に、反社会的なものや過激なものを求めているのではなく、翻案小説のように、適度にいい加減で、ツッコミ満載なものが今の時代にも存在して欲しい。そうなれば、少なくとも男子は、今より本に目を向けるようになるような気がします。
 それこそ一九五〇年代のアイディアストーリーを、現代の日本に合わせて翻案したら、皆、食いつくのではないかしらん……って楽観的すぎるかな。

※:『シンデレラの呪われた城』はカバーだけでなく、表紙も四色カラーである(写真)。インターネットで古書を購入する場合は、カバーの有無を確認した方がよいだろう。

『シンデレラの呪われた城』榎林哲訳、ポプラ社文庫、一九八七