読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『アンダーワールド』ドン・デリーロ

Underworld(1997)Don DeLillo

 翻訳小説好きの最大の苦悩は「読みたい作品が必ずしも訳されるとは限らない」ことではないでしょうか。場合によっては、シリーズものが途中までしか出ないこともあり、それに比べたら、訳が気に入らないとか、本の価格が高いなんて、大した問題ではありません。
 読者としては、お目当ての作品を一生読めないかも知れないと半ば覚悟しつつ、気長に待ち続ける姿勢が重要になってきます。

「気長に待ち続ける」と書きましたが、タイムラグも翻訳小説の宿命です。映画化などの場合は対応が早いのですが、そうでない場合、著しく時間がかかることがあります。
 ウンベルト・エーコは、自作が翻訳されるまで五年かかることを見越しているそうですが、日本語訳は十年後くらいになることがほとんどです。また、リチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』(1985)のように、版権の問題で翻訳が遅れるケース(単行本の発行は十五年後の二〇〇〇年)もあります。
 そのほか、本国で売れたり、評価が高い作品でも、内容、手法のせいで、やむを得ず未訳という本は腐るほどあるでしょう。個人的には、ウォルター・アビッシュの『Alphabetical Africa』(1974)をずっと待っていますが、期待薄かな……。

 ドン・デリーロの単行本が、初めて日本で出版されたのは、デビューから二十年経った一九九一年でした。ただし、彼の場合は『ホワイト・ノイズ』が話題になるまで、売れない時期が長かったため、翻訳が遅れたのも無理はありません。
 ちなみに、その頃の僕は「ポストモダン」「スリップストリーム」「ニューフィクション」「アヴァンポップ」などといった言葉で修飾されるアメリカ文学にかぶれていたので、貪るように読んだ記憶があります。ある意味、ちょうどよい時期に出会った作家といえます。

 なかでも、二十世紀の末に刊行された『アンダーワールド』(写真)は、文句なしに彼の代表作といえるボリュームと内容を伴った作品です。
 残念ながら訳本の刊行は二十一世紀になってしまいましたが、逆にいうと米国同時多発テロの後という絶妙なタイミングだったともいえます。というのも、カバーの写真がワールドトレードセンタービルだったり、高層ビル崩壊を暗示する箇所があったりしたため、テロを予言した書などといわれ注目されたからです。
 尤も、デリーロは『墜ちてゆく男』(2007)で9・11を取り上げており、『アンダーワールド』のテーマはテロではなく、ゴミです。

 ゴミは、人間の欲望の滓であり、繁栄の裏側には夥しい量の廃棄物が溜まってゆきます。デリーロは、人間たちがみてみぬふりをしているゴミに焦点を当て、物質文明の落とし穴や、冷戦期の米国の病巣を描き出しています……なんて書くと尤もらしいのですが、僕はそんなふうに小説を読むのが好きじゃありません。
 そもそも「テーマ」なんて言葉を使った時点で、分かったつもりになってしまい、作品を十分に楽しめなくなる気がするからです。

 それより『アンダーワールド』の魅力は、膨大な数の登場人物の人生模様にあると思います。彼ら、あるいは各時代をつなぐのが、二十世紀後半の米国を象徴するようなアイテム(それがゴミだったり、野球だったり、核兵器だったり、コンドームだったり、テクノロジーだったり、精神疾患だったり、マスメディアだったり、インターネットだったりする)であり、それらはそのまま米国史を形作っています(以前取り上げた『ラグタイム』は二十世紀初頭だったけど、こちらは冷戦期)。

 また、プロローグ、インタールード、エピローグを除くと、章が進むにつれ、時代はどんどん古くなります。時を遡って物語るという手法は、読者に歴史を意識させるとともに、推理小説と同様、事件の根源が次第に明らかになることも保証してくれます(といっても、エンターテインメント小説とは違い、すべてが明確に読み解けるわけではない)。

 例えば、この作品の狂言回し的役割を担うのが、一九五一年、ナ・リーグのプレイオフ第三戦、ニューヨーク・ジャイアンツのボビー・トムソンが放ったサヨナラホームランのボールです。それが黒人の少年から、廃棄物処理業者であるニックの手に渡るまでには、様々な物語と謎が用意されています。
 この部分だけを取り出しても十分長編として成り立つくらい密度が濃いのですが、世界はそこから蜘蛛の巣のように広がってゆきます。テキサス・ハイウェイ・キラーと呼ばれるシリアルキラー、ニックが若い頃犯した殺人、煙草を買いにいくといったまま失踪した父親、スラム街に住む決して捕まらない少女など無数の挿話が縦横無尽に絡み合ってくるのです。
 それを訳本にして上下巻千二百頁分使ってやるわけですから、自ずと重厚にならざるを得ません。

 恐らくデリーロは、網の目をできるだけ細かくすることによって、彼らが生きた時代をより鮮明に描き出そうとしたのでしょう。
 それは高いレベルで成功しており、二十世紀アメリカ文学を締めくくる作品として、トマス・ピンチョンの『メイスン&ディクスン』(1997)や、マーク・Z・ダニエレブスキーの『紙葉の家』(2000)と並び称されるのも納得の出来映えといえます。

 ただし、読者の方にも、それなりの忍耐力と情熱が必要であることも、また確かでしょう。というのも、構成の複雑さ、特異さについてゆくのに、かなり苦労させられるからです(ジェイムズ・エルロイに慣れている人でも戸惑うかも)。
 後説法は、前述の利点がありますが、逆にいうと、行く末がある程度みえてしまうため驚きが少ないという欠点にもつながります。また、全体としては過去に遡るとはいえ、章のなかでは時間が通常どおり進みますし、章内において複数の時代をいったりきたりする場合もあり(5章)、気を抜くと混乱してしまいます。

 尤も、そこさえクリアすれば、どの段階で、過去をどこまで仄めかすか、きっちり計算された職人技を堪能できます。
 長く持っていると腕が痺れるくらい分厚い本ですが、読み返したとき、その凄さが分かるので、再読する覚悟でチャレンジしてみてはいかがでしょうか。

 ちなみに、前回の『ドン・キホーテ』とは、「ドン」つながりってわけではなく、たまたまです……。

アンダーワールド』〈上〉〈下〉上岡伸雄、高吉一郎訳、新潮社、二〇〇二

→『マオII』ドン・デリーロ

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