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読書感想文(関田 涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ラグタイム』E・L・ドクトロウ

Ragtime(1975)Edgar Laurence Doctorow

 E・L・ドクトロウは、アメリカ文学におけるユダヤ系作家のひとりです。同じユダヤ系のフィリップ・ロスとほぼ同年代で、デビューも同時期。
 日本では、前に触れたロビンズやクーヴァー同様、一時期、訳本が続けて出版されましたが、最近は全く邦訳されなくなってしまいました(日本では一九九七年の『ニューヨーク市貯水場』が最後)。
 恐らく余り売れないせいでしょうが、僕のように読書の中心がアメリカ文学という者にとっては本当に困ります。エンタメや古典ばかりでなく、彼のような小説も頑張って翻訳し続けて欲しい(バースも暫く出てないし、ドン・デリーロなんかもそろそろヤバそうな気がする)。

 というわけで、今回は『ラグタイム』を取り上げることにします。
 主な舞台は二十世紀初頭のニューヨーク。実在の人物と虚構の人物をとり混ぜた群像劇です。
 偶然でしょうが、扱われた時代(日本では明治から大正)も、手法も、執筆された時期も、山田風太郎の「明治もの」と共通しているところが面白い。エロチックで、ぬるさ控えめな部分も少し似てるかな(同じ作者でいうと『ビリー・バスゲイト』が同系列になるでしょうか)。
 新しい時代の勢いや力強さは漲っているものの、ノスタルジックで感傷的な要素は少なく、決して手軽に読めて泣けるような代物ではありません。

 この作品は、おびただしい数の登場人物が、短い章で区切られた断片のなかに現れては消えるという構成になっています。強烈な印象を残す場面と他愛ないエピソードが入り交じり、まさに玉石混淆といった感じ。また、架空の人物のほとんどには名前がなく、会話と地の文の区別も曖昧です。
 こうしたスタイルが災いし、序盤はなかなか波に乗れません。登場人物がめまぐるしく入れ替わるのはよいとして、一度だけしか現れない人物や、主役級にもかかわらず突然姿を消し、それっきりになってしまう人物がいたりするところは首を傾げざるを得ません。

 そこで、ハッと気づくのは「これは単なるグランドホテル方式ではないのではないか?」ということです。
 物語の中心を担っていた三つの家族(アングロ・サクソン人、ユダヤ人、黒人)が最後に奇妙な形で結びつくところは、まさに群像劇の醍醐味ですが、実をいうと、それは余り重要でないのかも知れません。
 また、実在の人物や事件は、物語に真実味を持たせる背景として用いられたのかというと、そういう感じでもない。更にいうと、人間関係やできごと同士のつながりを重視せず、場面場面を無作為に切り取っているかのような印象さえあります。

 そう思いながら、改めてタイトルをみると……。
ラグタイム」とは当時流行していた音楽形式のことで、ずれたリズムといったような意味もあるそうです。確かに、ドクトロウのとった手法は独特のリズムを作り出し、虚実ごちゃ混ぜにも違和感を抱かせません。
 この本の狙いが、有名無名、貧富、人種を問わず、あらゆる人々が時代の渦に巻き込まれ右往左往する様を一様に描き出すことだったのなら、なかなか有効な方法だったと思います。群像劇とも歴史小説とも違う形で、混沌とした時代、人種のるつぼであるニューヨークを見事に表現したのですから。

 なお、僕が持っているハードカバー版の「訳者あとがき」には、ロバート・アルトマンによって映画化される予定と書かれていますが、実際はユダヤ系のミロシュ・フォアマンが監督を務めました。訳者の勘違いなのか、何か事情があったのか、詳しくないので分かりません。

ラグタイム』邦高忠二訳、早川書房、一九七七