読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ベル・ジャー』シルヴィア・プラス

The Bell Jar(1963)Victoria Lucas(a.k.a. Sylvia Plath)

『ベル・ジャー』は、シルヴィア・プラスが自殺する直前に出版された自伝的小説(Roman à clef)です。元々はヴィクトリア・ルーカスという変名で出版されました。
 そして、これはプラスの生前に刊行された唯一の長編小説となります。

 一九七四年に角川書店から刊行されたときは『自殺志願』(写真)という邦題でした。三十年後に河出書房新社より新訳が出た際は原題どおりの『ベル・ジャー』というタイトルに変更されました。
 僕が持っているのは『自殺志願』の方ですが、いくら何でもあんまりなタイトルなので、今回は『ベル・ジャー』の方を採用したいと思います(その方が検索に引っかかりやすいし)。
 ちなみに「ベル・ジャー」とは、釣鐘型をしたガラスの容器のことで、プラスはそこに閉じ込められているような圧迫感を感じ、表題に使用したようです。
 リタ・メイ・ブラウンの『女になりたい』(原題:Rubyfruit Jungle)もそうですが、繊細な感性によってつけられたタイトルをわざわざ俗っぽくしてしまうのは悲しすぎます。

 さて、プラスというと「双極性障害を患い、何度も自殺未遂を繰り返し、二人の子どもを残して三十一歳で自ら命を絶った天才詩人」と捉えられることが多く、『ベル・ジャー』もそうした興味から読まれてきたと思います。
 自殺に接すると、多くの人は、まず「なぜ?」という気持ちに支配されるのではないでしょうか。身近な人と赤の他人では重さが異なりますが、疑問の質は似ていると思います。

 遺書や日記があったとしても、本当のところは本人にしか分からず、場合によっては悩みはさらに深くなります。
 若くして死を選んだ少年少女の日記や詩などが出版されることもあります(岡真史の『ぼくは12歳』や、神田理沙の『17歳の遺書』など)が、彼らの自殺を肯定的に捉えることのできる人は僅かではないでしょうか。

 文学者の場合、遺された作品から何かを読み取ろうとする人もいます。『ベル・ジャー』のように、自らの自殺未遂について触れている作品なら、なおのこと、その傾向が強くなるでしょう。
 結論からいうと、『ベル・ジャー』を読んでも、プラスがなぜ自殺を選択したかなんてことは分かりません。
 しかし、主人公が死に引き寄せられてゆく過程には胸を締めつけられます。ゆき場を失った虫が狭い空間をぐるぐると飛び回るのをみているようで、なかなか先に進めないのです。

 自伝に近いフィクションなので、さほど技巧を凝らしていません。しかし、作者の貴重な体験や心情を冷静に伝えるという意味で非常に優れた文学であり、J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(※1)のように今も読み継がれるべき作品だと思います。
 ……とここまで書いて、『ベル・ジャー』が二〇二二年十月に河出文庫から復刊されることを知りました。同年の五月には短編集『メアリ・ヴェントゥーラと第九王国』も発行されており、ちょっとしたプラスのブームがきているようです。
 絶版を扱うブログとしては、その前に記事にしなくてはいけません(※2)。事前に復刊を知ったのは初めてのケースですが、ま、アリということで……。

 十九歳の女子大生エスター・グリーンウッドは、文学やファッションなどの分野のコンテストに入賞した十一人の少女と一緒に、ニューヨークにきていました。彼女たちは、ここで一か月、雑誌社の仕事をすることになります。
 そこで知り合った様々な人や、初めて体験するできごとがエスターを刺激します。ニューヨークで過ごしながら、エスターは同時に、ボストンでの過去を振り返ります。バディ・ウィラードという二歳年上の青年との恋愛や、彼の友人や家族とのつき合いに悩む様が描かれます。
 しかし、帰宅した途端、エスターは激しいうつ症状に悩まされます。精神科に罹りますが、症状は改善されません。やがて、死ぬことが頭から離れず……。

 前半は、繊細で感受性が強いものの、それ以外はごく普通の好奇心の強い女子大生が、恋愛や単位や人生のことに悩んだり、都会での生活に戸惑ったりしながら、懸命に生きゆく様子が描写されます。
 その悩みも、チップはいくら渡せばよいのかとか、恋人が別の人と性体験をしているので、自分も同じくらいの体験をすべきかとか、可愛らしいものが多い。
 潔癖症で真面目すぎるきらいはありますが、思春期の文学少女のイメージは大体こんな感じですし、取り立てて変わっているとは思えません。世界中に数多ある、若い女性の作者による思春期の悩みを綴った小説といえるでしょうか。

 ここでのエスターは、自分が何者になるのか悩んでいるようにみえます。
 結婚しないと考えている理由が、田舎にも住みたいし都会にも住みたいからだったり、専業主婦にもなりたいし自立もしたいといった、矛盾する望みに戸惑うのです。
 実際、彼女は「もし精神病っていうのが、二つのまるで相反するものを同時に望むことなら、私は本当に精神病よ」といった科白を口にします。

 それが伏線になり、後半になるとガラッとトーンが変わります。
 小さな挫折をきっかけに、精神が変調をきたすのです。

 何週間も眠ることができず、本も読めず、髪も洗えず……。何より辛いのは文字を書くことができなくなったことです。
 イケメンの精神科医は胡散臭く、電気痙攣療法にも耐えられず、母親を信用することもできず、自分の病気は治らないことを悟ったエスターに死ぬ以外の選択肢はなくなってしまいます。うつには、視野を狭めるという特徴がありますが、エスターの心の動きはその典型例という気がします。

 とはいえ、常に死のことばかり考えているわけではなく、気持ちは大きく揺れ動いていたはずです。当然、生きたいと強く願うときもあったでしょう。
 ただ、私立病院に入院し、女医に電気痙攣療法を施され、症状が改善したエスターは、ゆきずりの男に処女を捧げます。これも、ある意味、自分を壊そうとする心の動きという気がしました。
 その後も、同じ病院に入院していた友人の自殺や、バディから心ない言葉を投げかけられるなど、明るい光がみえないまま物語は幕を閉じます。

 プラスは若い頃に『ベル・ジャー』一度書き上げて、それを燃やしてしまい、後にもう一度書き直したそうです。さらに、恐らくは躁状態のとき、自殺未遂について書かれた箇所を読んで笑っていたという話もあります。
 いずれにせよ、プラスは、亡くなるまで死について考え続けていたことは間違いありません。精神医療の進歩とともに、世間の人のうつ病に対する理解が進んでいる現代であれば、あるいは自殺せずに済んだかも……と考えても仕様がなく、事実として彼女は自死を選択してしまいました。
 けれども、『ベル・ジャー』を作品として残してくれたことには感謝しないといけないでしょう。

 この作品から何を感じ取るかは読者次第です。
 彼女が感じていた息苦しさを追体験する人がいれば、うつ病患者の自殺防止に役立てようとする人がいるかも知れません。ひょっとすると、著名人の自殺報道と同様、読者が影響を受ける可能性を考慮すべきと考える人だっているかも知れない。
 勿論、読む人の年齢や性別によっても、受け取るものは大きく異なると思います。

 それでも、優れた文学のほとんどがそうであるように、『ベル・ジャー』には時代や場所を超えて、読む人の心を捉える何かがあることだけは確かです。
 復刊を機に、ぜひ読んでみて欲しい作品です。

※1:一九六五年を最後に、亡くなるまで四十五年も執筆をしなかったサリンジャーは、作家として自殺したといえるかも知れない。

※2:僕以外の人にとっては全く意味のないルールだが、それが更新する意欲につながっているため、できるだけ守りたい。一応、「月に三回更新」もできる限り守るようにしている。


『自殺志願』田中融二訳、角川書店、一九七四

→『ジョニー・パニックと夢の聖書シルヴィア・プラス