読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『女になりたい』リタ・メイ・ブラウン

Rubyfruit Jungle(1973)Rita Mae Brown

 リタ・メイ・ブラウン(※1)は、フェミニズム作家で、公民権運動やLGBTの社会運動にもかかわってきました。テニス選手のマルチナ・ナブラチロワのかつての恋人、ボブ・ディランの「Rita May」(※2)のモデルとしても知られています。また、ウィリー・ラッセルの『Educating Rita』の主人公リタも、ブラウンに由来します。
 小説家としてのブラウンは「トラ猫ミセス・マーフィ」というコージーミステリーのシリーズ(※3)も翻訳されていますが、これは林葉直子に譬えると「とんでもポリス」シリーズみたいなもの(?)で、重要な作品は何といっても『女になりたい』(写真)です。

 この小説は『Rubyfruit Jungle』というカッコいい原題なのに、日本では『女になりたい』という残念な邦題で出版されてしまいました。僕は、原題をカナに置き換えただけの邦題が嫌いなのですが、こればっかりはうーんと唸ってしまいます。
 官能小説やロマンス小説を数多く出版している二見書房なので、「『ルビーフルーツジャングル』なんてタイトルは、エロチックでもないし、意味も分からん」などと編集者に指摘された可能性もあります。しかし、『女になりたい』などという書名では心からこの作品を欲している読者に届かず、逆にエロを期待した人を失望させてしまったのではないでしょうか。
 カバーには「ルビー・フルーツ・ジャングルは激しい女の新しい自伝」「私はルビー色の女性自身が好き」「めげない女の子の自伝小説はニューヨークの新しい風」などと書かれていますが、これは却って逆効果です。帯ならともかく、カバーにゴチャゴチャと書かれているのでやたらとダサく、女性の読者は敬遠すると思います。

 誤解がないよう予め断っておきますが、『女になりたい』は、女になりたい男の話でも、可愛い女になりたい少女の話でもありません。それどころか、固定観念によって作られた女になんてなりたくない女性の物語なので、なおさらタイトルのわけ分からなさが目立ちます(「新しいタイプの女になりたい」と無理矢理こじつけることはできるが)。
「ルビーフルーツジャングル」とは女性性器のことで、斎藤綾子の『ルビーフルーツ』という短編集のタイトルは当然この小説を意識しているのでしょう。

 私生児のモリー・ボルトは、血のつながりのない夫婦に育てられています。赤の他人である祖母や従兄弟に囲まれているものの、モリーは肩身の狭い思いをしたり、へつらったりせず、堂々と生きています。
 思春期には男ともセックスをしますが、本当に心動かされるのは女性であると理解しています。やがて、フロリダ大学へ入るものの、レズビアンであることがバレると、モリーはニューヨークを目指します。

『女になりたい』は、自伝的要素が強いといわれています。しかも、記述の中心となるのは、性的な体験です。
 一九六五年に刊行されたメイ・サートンの『ミセス・スティーヴンズは人魚の歌を聞く』は、レズビアンであることを告白したため出版差し止めになったりしましたが、『女になりたい』はレズビアンのバイブルとして読まれ続けています。

 両者に違いが生まれた理由として、出版された時期が大きく関係していると思います。
 一九七〇年代前半にはウーマンリブ運動が全米に広がっていました。『女になりたい』と同年にはエリカ・ジョングの『飛ぶのが怖い』も刊行されており、女性がセックスに関して堂々と書くことができる時代になりつつあったのです(※4)。

 小説としての表現の仕方も少なからず影響しているでしょう。
『女になりたい』はいわゆるティーンエイジスカースを用いた一人称の語りで、『ライ麦畑でつかまえて』の少女版といった感じです。
 セックスに関しては、過激な性描写を売りにするのではなく、陽気であけっぴろげなのが特徴。モリーは、男子のペニスを女子にみせて金をとったり、女子を好きになることに悩んだりせず堂々と性行為をしたりしますが、「互いの性器を何ちゃら」といった性行為の具体的な説明がほとんどないため、ポルノグラフィのレッテルを貼られずに済んだと思われます。

 また、『女になりたい』が、それまでの小説と大きく異なるのは、モリーの考え方が飛び抜けて進歩的な点です。
 彼女は私生児として生まれ、母に捨てられ、生活水準の低い赤の他人に乱暴に育てられたにもかかわらず、頭が抜群によく、あれこれ悩まず実行に移すことができます。
「女には無理だ」とか「女らしくしろ」とか「女が女を好きになるのはおかしい」といった常識的な声に猛反発し、自らの性癖を隠そうともしません。母親に叱られても、噂になっても、後ろ指を立てられても信念を曲げないのです。
 こうしたところが、リベラルな女性読者の共感を得たのかも知れません。

 さらに、男が読んでも嫌味に感じないのは、モリーの言動が魅力的だからです。フェミニストというと「被害者意識が強く、攻撃的で、やたらと権利を主張するが、他人に対して優しくない」なんてイメージを持つ人もいると思いますが、モリーはそうした頭でっかちなタイプではありません。
 不平等な社会を変革しようとか、性差別をなくそうといったことは余り考えておらず、誰にも邪魔されず自由に行動したいと願っているようにみえます。それは明らかに性差の問題を超えています。
 人間誰しもが抱いている願望に忠実に行動するモリーに、フェミニストレズビアンといった余計な肩書きは必要ありません。

 勿論、『女になりたい』は飽くまでフィクションで、ブラウンの実際の活動とは異なります。バリバリのフェミニズムの活動家を主人公にしてしまったら読者に嫌悪され、本が売れなくなると計算した……なんて側面もあるかも知れません。
 真相は分かりませんが、少なくともブラウンは、レズビアンであることを強く意識するのではなく、どこにでもいる普通の人間としてごく自然に生活してゆくべきだと考えていたらしいので、その理想をモリーに投影したとは考えられます。

 とはいえ、モリーは何の障害もなく、人生を謳歌しているわけではありません。
 フロリダ大学で寮のルームメイトと性的関係になった際は、ほかの生徒たちに無視されますし、寮長にバレるとふたりは引き離され精神病院に入れられてしまいます。彼女はそこを抜け出しますが、母親に「変態」と罵られたため、単身ニューヨークへ向かいます(実際のブラウンは公民権運動に積極的にかかわり、大学を追放された)。

 さすがにニューヨークは進歩的で、モリーは多くのLGBTと出会い、恋人もできます。貧乏だけど自由で、セクシャリティで差別もされないコミュニティは彼女にとって理想郷といえますが、快楽に溺れたり、自堕落な生活を送ることで満足しないのが尊敬に値します。
 ある女性のオンリーさんになれば経済的に楽になるにもかかわらず申し出を断り、果ては恋人とも別れてしまいます。モリーには、映画監督になるという夢があり、それは自力で達成しなければ意味がないのです。

 モリーは働きながらニューヨーク大学の映画学科に通うことを選択します。女性であるために教授や同級生に馬鹿にされ、またレズビアンであることで様々な問題が生じますが、持ち前のバイタリティで苦難を乗り越えてゆきます。
 そして、卒業制作の映画を撮影するため、六年ぶりに母の元へ帰るのです。
 血もつながっておらず、教育レベルも違う異質なふたりの邂逅は、憎しみ合いながら愛するという複雑な感情が垣間みえ、不思議な感動を齎します。このシーンに出会えただけで、読んだ甲斐があるといえるでしょう。

 約五十年前の作品ですが、LGBTに対する差別や、「女が映画監督になれるわけない」と馬鹿にされ、機材を貸してもらえない、クラスで最も優秀だったにもかかわらず就職で惨敗したといったエピソードを、過去の遺物と笑うことはできません。
 なぜなら現在も、性差別、ホモフォビア、機会均等、男女同権といった問題は全く解決されていないからです。

 それらを考える上でも、ウーマンリブ運動が高揚していった時代の空気を感じさせる『女になりたい』に触れてみてはどうでしょうか。
 繰り返しになりますが、この小説は、出自、ジェンダーセクシャリティ、結婚などに囚われず、自由に生きようとする女性の物語です。それはフェミニズム云々以前に、人として当たり前の望みに過ぎないことがよく分かると思います。

※1:この本の著者名は「リタ・マエ・ブラウン」だが、ここでは「リタ・メイ・ブラウン」という表記で統一する。

※2:この曲はディランとジャック・レヴィの共作で、「メンフィス・ブルース・アゲイン」のB面に収録された。アルバムでは、日本でリリースされた「Masterpieces」くらいにしか収録されていない。二〇一三年に出た「The Complete Album Collection Vol. One」に「Side Tracks」というボーナスCDがついていたが、なぜかこれにも入っていない。ただし、「The Rolling Thunder Revue: The 1975 Live Recordings」にはライヴ録音が収録されている。また、マーチン・スコセッシのモキュメンタリー映画『ローリング・サンダー・レビュー:マーティン・スコセッシが描くボブ・ディラン伝説』でも演奏シーンがみられる。

※3:共著のスニーキー・パイ・ブラウンとは人間ではなく、トラ猫である。

※4:尤も、パトリシア・ハイスミスがクレア・モーガン名義で出版した『キャロル』(1952)はベストセラーになっている。『ミセス・スティーヴンズは人魚の歌を聞く』が否定された理由は、やはり「男など不要」と宣言したことにあるのではないか。詳しくはこちら


『女になりたい』中田えりか訳、二見書房、一九八〇

LGBT小説
→『マイラ』『マイロンゴア・ヴィダル
→『ミセス・スティーヴンズは人魚の歌を聞くメイ・サートン
→『ヴィーナス氏』ラシルド
→『絢爛たる屍』ポピー・Z・ブライト
→『夜の森』ジューナ・バーンズ

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