読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『愚者たち』ジャブロ・ンデベレ

Fools and Other Stories(1983)Njabulo Ndebele

 ジャブロ・ンデベレの『愚者たち』(写真)は、一九八四年に「野間アフリカ出版賞」を受賞しました。この賞はアフリカ文壇への登竜門としての役割を担っていましたが、ニ〇〇九年を最後に主催されていません(ンデベレはニ〇〇四年にも『The Cry of Winnie Mandela』がノミネートされた)。

 原書の『Fools and Other Stories』には五編が収められていますが、最初に翻訳された講談社版は「愚者たち」のみの収録で、スリーエーネットワーク版には「愚者たち」と「おじさん」の二編が収められています。「The Test」「The Prophetess」「The Music of the Violin」の三つは訳されていません。
 また、ンデベレの著書も、ほかに翻訳されたものはなさそうです。

 ただでさえ、翻訳小説は読まれないのに、アフリカのリアリズム文学となると読者が極端に限られてしまうのかも知れません。
 しかし、細々とでもよいので、日本に紹介し続けて欲しいですね。エイモス・チュツオーラソニー・ラブ=タンシのようなインパクトの強さはなくとも、良質な作品が数多くありますから。

おじさん」Uncle
 チャーターストンという黒人居住区で、母とふたりで暮らす「ぼく」のところに、ある日ふらりと叔父さんがやってきます。下手糞なトランペットを吹き、女の人を家に連れ込み、町一番の乱暴者と喧嘩をする困った叔父さん。それでも「ぼく」には魅力的に映ります。

 柴田元幸によると『物語には「伯父/叔父さんの話」という小さなサブジャンルがあって、夢想家だったり怠け者だったり、あっちへふらふらこっちへふらふら、世の中と致命的にずれている(しかしその割に本人は平気な顔をしている)伯父さんもしくは叔父さんがいて、周りの人間には迷惑だったり腹立ちの種だったりするわけだが、子供はたいていそういう伯父さん/叔父さんが大好きで(後略)』(『僕の名はアラム』訳者あとがき)とのことですが、この小説は正にその典型です。

 しかし、叔父さんは、牧師の父親に反発し家を飛び出した過去があります。その後、様々な知識を得、音楽と出合い、自分たち先住民が立ち上がり世のなかを変えなくてはいけないと考えるに至ります。
 とはいえ、「ぼく」には、まだ難しいことが分からないし、町の人々も叔父さんの巻き起こす騒動や音楽を楽しんでいるようにもみえます。
 政治的な部分は極力みせず、アパルトヘイト政策下の黒人たちの暮らしを陽気に描くことで、逆に色々なことを想像させます。大勢の人が楽しそうに踊りまくるシーンで物語は閉じられるのも効果的です。

愚者たち」Fools
 チャーターストンで教師をしている中年男性ザマニは、ある朝、駅でザニ・ヴテラという青年に声をかけます。すると、ザニはザマニの悪行を次々に暴いてゆきます。なぜそんなことを知っているかというと、かつてザマニは教え子を凌辱し妊娠させており、ザニはその少女の弟だからです。
 一方で、スワジランドの寄宿学校に入っているザニは、南アフリカでは黒人がまともな教育を受けることができないことに憤っています。血気盛んなザニは酒場で刺されたり、小学校に現れ子どもたちに「ディンガネの日(血の川の戦いにおいてボーア人はズールー王国の黒人たちを大量に殺戮した。ディンガネはそのときの王。要するに、黒人たちは自分たちの祖先が殺戮されたことを祝わされている)」の欺瞞を説いたりしますが、支配されることに慣れてしまった黒人たちは自ら考えようとしません。そして……。

 主人公のザマニは、典型的な俗物です。自分のことを人格者と思っているようですが、実際は卑劣で、無能で、薄っぺらく、その癖、プライドだけは人一倍高いといった人物造形がなされています。
 この小説はザマニの一人称のため、読者は彼の鼻持ちならない語りを延々と聞かされることになります。しかも、カズオ・イシグロの『日の名残り』のスティーブンスのように自己欺瞞のテクニックを持たないので、ひたすら嫌悪感が積み重なってゆきます。

 ところが、中盤辺りからザマニの雰囲気が少しずつ変わってきます。刺されたザニを家まで送り届け、家族の非難を甘んじて受けたり、教室に侵入してきたザニを追い返さず、試験を中止してまで演説を許したりと骨のあるところをみせるのです。
 第一印象が最悪だっただけに、多少はマシになったかと思いきや、結局、ザマニは何の行動も起こさず、ザニを傍観しているだけであることが分かります。心のなかで理解を示しつつ、知らん顔をしているなんてのは無知より質が悪い。

 それでもザニは、ザマニを見捨てません。ザマニの妻のノシポなら良識のあるインテリなので心を開くのは分かるのですが、姉を辱めた低俗な教師をなぜ相手にするのでしょうか。
 恐らくザニは「この男を変えることができなければ社会に変革を齎すことなど到底できない」と考えているのです。ザマニはそのために選ばれた、駄目人間の見本といえます。

 その思いが通じたのか、ラストシーンでザマニは、支配者である白人の醜さ、弱さにようやく気づきます。
 ボーア人に鞭を打たれても逃げ出さず、相手をじっと睨み返したのです。それは小さな小さな勝利ですが、ザマニのなかで何かが確実に変わります。

 勿論、そうした変化が実を結ぶのは遠い先のことですし、南アフリカの黒人たちにはこれからも幾多の屈辱が待っています(この小説の舞台は一九六六年)。
 しかし、辱められている者が自嘲することや無知でいることがいかに愚かであるか気づくだけでも大きな前進といえるでしょう。
 人の尊厳を踏み躙る者に対して愚者を演じるのは服従の印にほかならないからです。

『愚者たち』福島富士男、村田靖子訳、スリーエーネットワーク、一九九五