読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ベル・カント』アン・パチェット

Bel Canto(2001)Ann Patchett

ベル・カント』(写真)はアン・パチェットの代表作です。オレンジ賞やペン/フォークナー賞を受賞しており、二〇一八年には映画化もされています。
 しかし、翻訳されたパチェットの長編はほかに『密林の夢』しかなく、映画『ベル・カント』も渡辺謙加瀬亮など日本人の俳優が出演しているにもかかわらず、現時点で日本公開がありません。

『密林の夢』の「訳者あとがき」で芹澤恵は「その理由のひとつに、それぞれの作品の豊かで複雑な味わいをひと言では紹介しにくいことがあるのかもしれない。あらすじや作品紹介を読んで受ける印象と、実際に読んだ際の印象がまるでちがうのだ」と書いています。
 それもあるのかも知れませんけど、パチェットの小説が日本で余り話題にならない理由をもっと簡単にいうと「面白すぎるせい」だと僕は思います。

 こういうと何ですが、恋愛小説やロマンス小説と称されるものは「よくこんなのを次から次へと読めるな」と呆れるくらい退屈な代物ばかりです(勿論、これは僕が架空の恋愛に全く興味がないからで、小説の質とは無関係)。
 ところが、パチェットの作品は冒険小説のような設定が用意されているため、物語のなかにスルッと入り込みやすい。その後の展開はサスペンスやアクションとは明らかに性質が異なるのですが、そうと気づいたときには既に作品の世界にどっぷり浸かっているというわけ。こういう恋愛小説なら、いくらでも読むことができます。

 けれども、恋愛至上主義者にとって、冒険的要素や文学的要素はもしかすると余計なのかも知れません。彼らは、愛し合うふたりをひたすら追いたいのであって、ハラハラする事件や複雑な人間関係が欲しいなら別の小説を読めばよいわけですから。
 逆に、僕のような朴念仁は、色恋の部分を不要と考えがちです。いや、それ以前に、女性的な装幀、タイトル、著者名のせいでスルーしてしまい、パチェットの真の魅力に気づけない可能性があります。
 帯に短し襷に長しのようなことを書いてしまいましたが、実際はその反対です。パチェットは、どちらのタイプが読んでも満足できる作風と、安心できるクオリティを備えている作家なのです。

 例えば、『ベル・カント』は、一九九六年に起こった在ペルー日本大使公邸占拠事件をモデルにしています。人質が解放されるまで四か月もかかった占拠事件として、記憶に残っている方も多いことでしょう。
 パチェットはこれを社会派のサスペンスやノンフィクションノベルにするのではなく、テロリストと人質の心の交流を主眼に描きました。しかも、いかにも女性らしい木目の細かさで……。
 詳しくは後述するとして、まずはあらすじから。

 日本最大のエレクトロニクス企業ナンセイの社長カツミ・ホソカワは、南米の小国に招かれます。日系人のマスダ大統領は、ナンセイの援助を期待し、ホソカワの誕生パーティを開こうというのです。ホソカワはこの国に工場を作る気などありませんが、ゲストとして招かれたオペラ歌手ロクサーヌ・コスに惹かれ、わざわざやってきました。オペラが唯一の趣味であるホソカワはコスの大ファンなのです。
 パーティが終わりに近づいた頃、十五人のテロリストが侵入してきます。彼らの目的はマスダ大統領を拉致し、それと引き換えに仲間の釈放を要求することでした。ところが、大統領は直前になって出席を取り止めていました。そのため、テロリストたちは二百二十人の人質とともに官邸に籠城することになります。

「テロリストと人質の心の交流を描いた」と書きましたが、この小説は籠城を扱っているにもかかわらず、驚くほど緊迫感に欠けています。
 大統領を拉致するという当てがいきなり外れたテロリスト(三人の指揮官以外は少年少女)は、副大統領に怪我を負わせたものの、それ以降は極めて紳士的に行動します。女や子ども、病人、聖職者などを解放し、残った人質にもある程度自由な行動を許します。これは彼らが非情なプロの集団ではなく、最近まで普通の生活をしていた俄テロリストであることを表しています(政府側の交渉役が赤十字のスイス人ひとりというのも不自然だが……)。
 一方、人質たちは、様々な国や人種が集まっており、互いに言葉が通じません。そのため、ホソカワの有能な青年通訳ゲン・ワタナベ(※)に意思の疎通を委ねています(ゲンは数多くの言語を操る)。それもあって、抵抗や反乱の素振りをみせず、従順な態度を示します。

 というわけで、コスの伴奏者(糖尿病)がインスリンを打たずに死亡した以外は、別段変わったことが起こらず、あっという間にときが過ぎてゆきます。膠着状態であることは間違いないのですが、官邸を取り囲む警察も含め、切羽詰まった感じはほとんどしません。
 貧しきテロリストと裕福な成功者という対極の存在にも実は共通点があって、それは彼らがこれまで必死に働いてきたことです。ですから、思わず訪れた怠惰な時間に誰もが大いに戸惑うのです。

 こうした不思議な雰囲気のなか、人々をひとつにまとめたのが音楽でした。
 伴奏者亡き後、ナンセイの副社長が優秀な素人ピアニストであることが分かり、神父が友人に頼んで大量の楽譜を差し入れてもらうと、音楽好きの者たちは、コスの歌を待ち焦がれ、聞き惚れるようになります。

 それからというもの、テロリストと人質の間にはますますリラックスしたムードが広がります。
 ジャングルでの生活が主であった少年少女はテレビのソープオペラに夢中になり、指揮官はチェスを楽しみ、ホソカワはコスにピアノを習い、フランスの大使は料理の腕をふるうといった具合に、あたかもありふれた日常生活が戻ってきたような錯覚に陥るのです。

 さらにパチェットは、ふたつの恋愛に焦点を当てます。
 ひとつはホソカワとコスの、そして、もうひとつはゲンとテロリストの少女カルメンの恋です。
 二組とも本来なら出会うことのない組み合わせであり、また恋をしてはいけない関係でもあります(ホソカワには妻子がいるし、ゲンとカルメンは人質とテロリストという間柄)。
 つまりは、時間的にも空間的にも閉ざされた異様な世界(ホソカワ、コス、ゲンにとっては遠い異国。また、ケチュア語母語とするカルメンにとっても都市は外国のようなもの)でしか成立しない危うい恋なのです。

 だからこそ、いつ崩壊するか分からないという刹那的な美しさがあります。
 恋愛にのめり込む要素のひとつに不倫など非道徳的な行為があることは紛れもない事実です。その究極の形が『ベル・カント』の道ならぬ恋であり、だからこそ読者の心を揺さぶるのでしょう。

 さて、彼らが暮らすのは死と隣り合わせの危険な世界ですが、一方で外界から隔離された柔らかな繭のようでもあります。人質の大人たちは、教育を受けていない少年少女に様々なことを教え、なかには養子にしたいと考える者まで出てきます。いつの間にか、多くの人がこの状況がずっと続いて欲しいと願うようになります……。
 それはストックホルム症候群というより、偶然集まったかけ離れた境遇の人間たちによって、奇跡的なバランスで形成された共同体という気がします。次第に彼らは、どこで何を目指して生きているのか分からなくなるくらい感覚が麻痺してゆくのです。

 しかし、そのような特別な日々が永遠に続くはずはありません。
 どのような結末を迎えるかは書きませんが、読了後の余韻に浸りながら、最初からこれ以外の選択肢がなかったことに気づかれると思います(とはいえ、エピローグはいかにも女性作家らしい。男はこういう展開を思いつかないのではないか……)。

 日本人が主役(ゲン)を演じるだけでも珍しいのに、差別的に描かれておらず(それどころか、ホソカワもゲンもカトウも知的な紳士である)、文化や習慣に関するおかしな記述もほとんどありません(唯一気になったのは日本人の外国語の知識について。例えば、チェスを指すとき、チェックを日本語で何というか分からないので指で示す。日本だってチェスのときは「王手」とはいわない)。
 そういう意味でも、ぜひ読んでいただきたい作品です。

追記:二〇一九年十月、ハヤカワepi文庫から復刊されました。

※:映画では、ケン・ワタナベがゲン・ワタナベではなくホソカワ役なので、ちとややこしい。

ベル・カント山本やよい訳、早川書房、二〇〇三

→『密林の夢』アン・パチェット

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