読書感想文(関田涙)

関田 涙(せきた・なみだ)

『ヂャック』アルフォンス・ドーデ

Jack(1876)Alphonse Daudet

 アルフォンス・ドーデの『ヂャック(ジャック)』(写真)を読むきっかけとなったのは森茉莉でした。
 茉莉の息子の山田𣝣(じゃく)と同じ名前のせいか、彼女のエッセイに度々登場します。例えば……。

息子の家から公然と移動して来たドオデの「Jack」の前篇、後篇(幻の本棚)

魔利の書棚は魔利の部屋の飾り棚である。(中略)ドオデの「Jack」(贅沢貧乏)

「Jack」の中に出て来るJackの母親は、九歳のジャンが見たマリアに、同じ女のやうに似てゐたからだ。(中略)さうしてアルフォンス・ドオデの「Jack」を耽読してゐたのを知つたこととの二つは、どこか感情が薄い、歓びも、哀しみも時折どこかへ抜け去る、といふ異常な性格を持つマリアにも、深い感動を、与へたのである(マリアの気紛れ書き)

 茉莉はガリマール版で読んだのでしょうが、こちらは訳本を探すしかありません。
 候補となるのは、東京国民書院の『母の戀』(上村左川訳)、新作社の『私生兒』、春陽堂文庫の『ヂャック』(※)、ゆまに書房の「昭和初期世界名作翻訳全集」、本の友社の『アルフォンス・ドーデ選集1〜3』です。
『母の戀』は古すぎてみつからず、『私生兒』は第一部のみの翻訳、後二者は復刊なので、必然的に春陽堂文庫を選ぶことになりました。

 僕は大して苦労もせず帯・元パラ付の三冊セットをみつけましたが、今では入手がやや難しいようです。おまけに三分冊ですから、バラ売りされていると「一冊だけ買うべきか。それともセットになっているのを探すべきか」思案のしどころだと思います。
 ま、そういうのも古本を漁る楽しみのひとつなので、気長に探索してみてください。

 なお、『ヂャック』は、ボリス・ピリニャークの『消されない月の話』とは異なり、世界名作文庫が春陽堂文庫に統合された後のものです。それによって「日本小説篇」は白色帯、「翻訳小説篇」は赤色帯で区別されました。

第一部
 父親のいないヂャック(七、八歳)は、名門の寄宿学校へ入学するつもりが、母であるイダ・ド・バランシーの素性が知れないため断られてしまいます。仕方なくヂャックは、モンテーニュ街にある劣悪な環境のモロンヴァル塾に入れられます。
 一方、ヂャックの母は、塾の文学教師アモリー・ダルヂャントンと恋に落ち、駆け落ちしてしまいます。それからというもの、残されたヂャックは経営者たちに虐待されるようになります。やがて、ヂャックは塾を脱走し、母のいるオーネットへ歩いて向かいます。
 しかし、そこでも肩身は狭く、ダルヂャントンに馬鹿だと思われ教育を受けさせてもらえず、職工見習いとして、またしても家を追い出されてしまいます。

第二部
 ナントの近くにある、鉄工所が建ち並ぶ島アンドレに送られたヂャック(十四歳)は、厳しい労働環境やいじめに晒されます。やがてヂャックは、ギャンブル狂の男に利用され、下宿先の娘の持参金を盗んだことにされてしまいます。
 嫌疑は晴れたものの、家に帰りたいという願いは叶わず、さらに二年の月日が流れます。その後、今まで以上に過酷な汽船の火夫となりますが、三年我慢した後、汽船が沈没してしまいます。
 何とか命拾いし、母のいるパリへゆきますが、そこでも邪魔にされ、ヂャックは少年時代を過ごしたオーネットにやられます。

第三部
 ヂャック(二十一歳)は、医師リヴァルの孫娘セシルと再会します。けれど、労働者の身分に落ち、粗野な習慣が身についてしまったヂャックは、彼女とまともに喋ることさえできません。
 しかし、「医者になりセシルと結婚しろ」というリヴァルの励ましを得て、再びパリに戻ったヂャックは、旧知の行商人の家に下宿して、昼は職工、夜は医学の勉強を始めます。さらに、ダルヂャントンから逃げ出してきた母が同居し、ヂャックに物心ついて初めてといえる幸福な日々が訪れます。
 それも束の間、またしても母に裏切られ、さらに母の軽はずみな言動でセシルとの結婚も白紙になり、悲観したヂャックは……。


 ヂャックの母イダ(シャロット)は若く美しい反面、思慮の足りない愚かな女性です。伯爵夫人を名乗るものの、実はヂャックの父親が誰かは分かりません(ド・バランシーは偽名)。
 ヂャックがボンナミ(Bon Ami)と呼ぶパトロンがいて生活には困っていませんが、まだまだ遊び足りないのかヂャックを寄宿舎へ入れようとします。で、恋をすると、さっさとパトロンと手を切って逃げてしまう。
 要するに、現代でもよくみる、自分勝手で無責任な親なわけです。

 内縁の夫のダルヂャントンは、当然ながらヂャックが疎ましく、無理矢理に職工(十九世紀のフランスにおいては、身分が低く過酷な労働を担っていた)にさせたり、ボンナミからもらったヂャックの金を勝手に使って出版社を興したりするのです。
「ヂャックは頭がよいが、体が丈夫でない」ことに気づいたリヴァルは、職工なんてとんでもないと猛反対しますが、ここでもシャロットは夫のいいなりになって、ヂャックを説得します。意地の悪いダルヂャントンに逆らえない母は、その後もヂャックに辛く当たってしまいます。

 けれども、ヂャックはそんな母親が大好きです。
 虐げられても恨むことなく、哀れな母を救ってあげなければと考えてしまう健気な少年で、地獄のような鉄工所にやられるときも「母さんがいつも僕を可愛がる事、僕が眞黒な手をもつやうになつても恥しく思はないと云ふ事を約束して頂戴」なんてことをいう子なのです。
 物語の最後になってようやく彼は「あれは惡い母親です……私の一生のすべての悲しみは、みんな彼女のおかげです。私の心は、彼女からいためつけられた傷だらけです。(中略)そして私が死にかゝつてゐるのに來ないのです……おゝ! 惡い、惡い、惡い母親! 私を殺すのは彼女です。そして私が死ぬ時も逢ひに來ようとしないのです!」と嘆きますが、すべては手遅れでした。

 連れ子に対して鬼のような再婚相手、良人に嫌われたくないため実の子どもを虐待する母親、どんなに弱い親でも慕ってしまう子の話は、今でも腐るほど聞かされます。また、学校や職場でのいじめもなくなりません。
 僕らがそれを知るのは、大抵取り返しのつかない事態になってからで、そのたびに「どうして、こうなる前に救ってあげられなかったのか」と憤りを覚えます。
 そうしたニュースを思い浮かべながら『ヂャック』を読むと、フィクションと知りながら本当に悲しく、また情けない気持ちになります(ジュール・ルナールの『にんじん』や、野坂昭如の「童女入水」も辛いが……)。

 さらに恐ろしいのは、この物語が普遍性を備えていることです。
 百五十年前のフランスの話を現代の日本に持ってきてもそのまま通用してしまうということは、百年先、二百年先も人間は同じような事件を起こすことを意味します。

『ヂャック』は、小説としてはいかにも古臭く、冗長なので、今さら読む必要はないともいえます(チャールズ・ディケンズの『オリバー・ツイスト』や『デイヴィッド・コパフィールド』などによく似ている)。
 しかし、逆にいうと、余計なことを考えず、ひたすら泣ける小説など現代ではほぼ存在せず、とても貴重です。
 日頃、小難しい文学に溺れている方も、たまには、金髪の美少年ヂャックが次々に辛い目に遭うだけの物語に浸ってもよいのではないでしょうか。

 なお、ドーデは自伝的な長編『プチ・ショーズ』でも、主人公ダニエル・エーセットの兄としてジャックという人物を登場させています(実兄のエルネスト・ドーデがモデル)。こちらのジャックも若くして儚くなってしまいます。
『ヂャック』は英語の綴り(Jack)ですが、『プチ・ショーズ』の方のスペルは「Jacques」です。

※:『私生兒』は第一部を前篇、第二部・第三部を後篇として刊行予定だったが、関東大震災の影響で前篇しか出版されなかった。同じ訳者が十二年後に完訳出版したのが『ヂャック』である。

『ヂャック』〈第一部〉、八木さわ子訳、春陽堂文庫、一九三五
『ヂャック』〈第二部〉〈第三部〉、八木さわ子訳、春陽堂文庫、一九三六

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